待つ №33

平成22年1月1日


待 つ

 (あらた)しき年の初めの初春のけふ降る雪のいやしけ吉事(よごと) 
                          大伴家持

 この歌は万葉集最後の歌、天平宝字三年(759)正月一日に因幡守であった大伴家持が祝宴で詠んだ歌です。意味は文字通り、年の初めに降りしきるこの雪のようによいことが重なってあって欲しいということです。

 しかし、この歌は家持の当時の状況を考えると単なる賀歌とは思えません。父大伴旅人の死後没落の途をたどる大伴家の家長として鬱々たる日を過ごすことが多かった家持にとってこの歌は一家の繁栄を予祝する祈りの歌と見る方が真実ではないでしょうか。

 家持はこの歌の後、延暦四年(785)に亡くなるまでなお26年存命でしたが、その間の歌は一首も伝わっていません。このことは家持の大きな謎になっていますが、それは家持の晩年が決して安穏ではなかったということでしょう。家持の祈りは存命中は叶わなかったと言えます。しかし、いま家持とその一統が万葉集第一級の歌人として不朽の名声を勝ち得ていることは言うまでもありません。歴史が家持の祈りを叶えたと言えましょう。

 年頭、そのことを考えていたら「息長く待つ」という言葉が思い浮かびました。あるいは「長い目で見る」と言ってもいいかも知れません。家持の話とは少しずれますが、私たちはいま長い目でものを見たり息長く待ったりということが出来なくなっているのではないかという気がしたのです。
 
 いい例が子育てにあります。少子化はその反面子供に掛ける手間暇が増えたということですが、その結果子供の成長を待ち切れず、親が先回りしてお膳立てをしてしまうことが多くなったように思います。いま自主性に乏しく指示なくしては行動できない子供が増えているのはそこに原因の一つがあると思われてなりません。このことは決して子育てに限りませんね。みなさん、今年は「待つ」でいきませんか。



(にぎ)田津(たつ)に船乗りせむと月待てば
  潮もかなひぬ今はこぎ出でな
           額田王~

0 件のコメント:

コメントを投稿