大我無我純真 №43

平成22年4月8日

大我無我純真

天地清明爽快晨(天地清明爽快の(あした)) 
如来世尊現仏身(如来世尊仏身を現ず)
参究々唯我独尊(唯我独尊を参究々し) 
後生衆生学純真(後生衆生純真を学ぶ)

上は今年の花まつりの法語です。その意味は、明るく清らかな朝/このお堂にお釈迦さまがお出でです/唯我独尊を考えて/純真の大切を学びました/ ということです。

去年でしたか一昨年でしたか、お釈迦さまがご誕生の時自らおっしゃったという「天上天下唯我独尊」についてお話したことがありましたね。その時、お釈迦さまが「自分一人が最尊の存在である」という意味でこの言葉をおっしゃったのではないことを申し上げたと思います。今では「独りよがり」の代名詞になってしまった「唯我独尊」ですが、お釈迦様の唯我独尊を独善と捉えたら私たちはこの言葉に何の意味も見出すことはできません。

私は今は、唯我独尊の「我」を「大我」「無我」と考えています。大我とは絶対的な自由の境地です。無我とは我意のないことです。「諸法無我」の無我ではなく無心の意味の無我です。お釈迦様は人誰しもが持っている大我、無我を指してこれ以上尊いものはないと言われたと思うのです。
 
 それでは私たちにとって大我、無我とは何でしょうか。私は「純真」ということではないかと思います。皆さんの中にも純真という言葉からあどけない幼児をイメージされる方が多いと思いますが、私たちが生来持っていながら忘れているもの、人間にとって最も尊くて大切なもの、それこそが純真なのではないでしょうか。あどけない童子のようにまた一茎の野の花のように天地天道に従って欲もなく(いかり)もなくあるがままに存在することがお釈迦様の我、純真ではないかと思います。

 


すべての人々には清浄の本心がある。
迷いの塵のために覆われても本心は汚されることはない。~仏教聖典~

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