失われた感覚 №44

平成22年4月17日

失われた感覚

 二十四節季で言えば今は「清明」ですが、二十日には「穀雨」になります。確かにこれから穀物や野菜の種まき時。「穀雨」はそれらを発芽生長させる恵みの雨ですね。菜種梅雨という言葉もありますが、それが「穀雨」なのかも知れません。そう考えると二十四節季というのは季節の移ろいをよく言い表していると感心させられます。それは昔の人たちが季節や自然と一体になった生活をしていたからでしょう。

 しかし、さらにびっくりすることはその頃の人たちは一日の光の移ろいを二時間ごとに感じ取っていたということです。昔の人は一日の始まりは夜と捉えていたようですので夜から申し上げますと、夜は午後九時から午前三時までですが、これを夜、真夜、夜とし、続く朝は三時から暁、明、朝とし、昼は午前九時から昼、真昼、昼とし、午後三時からはやはり二時間ごとに夕、暮、宵と呼んでいたのです。

当時の人たちが朝夕ばかりか一昼夜に渡って時間ごとの光の違いを感じ取っていたことに驚嘆の思いですが、これも光、明かりと言えばお日さまが唯一と言ってよかった時代の人の力なのでしょう。人はその時代、環境によって発揮する能力が違いますが、生活を自然に頼るしかない時代には人は自然に対して敏感かつ敬虔になり、そのために現代の私たちが失ってしまった力を持っていたのです。

そう考えていて気づいたことがあります。先日の花祭りの折、私たちの本来性である「純真」こそ大事ではないかと申し上げましたが、この本来性を発揮できるかどうかは、そのことに私たちが敏感になっているか、そして環境を整えているかということに掛かっているに違いありません。失われた感覚同様、私たちの本来性は存在していて発揮されないでいるのです。これを発揮できるようにするのはやはり日々の心掛け(文字通り心に掛けておくこと)と訓練なのでしょうね。内心忸怩です。



  玉磨かざれば光なし。
  また言う。
  玉(みが)かざれば(うつわもの)をなさず。
            ~住職ネコちゃん~

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