青葉千里 №85

平成23年5月17日

青葉千里

 すがすがしい青葉の季節になりましたね。その青葉で思い出したのですが、実はここ数年気になっている歌がありました。中学生の時習った歌で歌い出しの二小節以外は曲名も歌詞も思い出せない歌があったのです。時に同年代の人に尋ねたりしましたが知っている人はいませんでした。教科書が違えば学ぶ歌が異なることもありましょう。

 ところが先日、ある所で同じ話になった時、その中のお一人が話題のスマートフォンでたちまちに検索して下さり疑問が一気に氷解したのです。歌は明治41年、ウェーバー作曲の歌劇「魔弾の射手」の序曲に吉丸一昌さんが作詞したもので「夏野」という曲名でした。私はこれを昭和30年版の「中学音楽2」で習っていたのです。その歌詞は次のようになっていました。

        青葉三里 野路を辿る 馬追いの 笠の上に 
             白し真白し 真白小百合 朝風に 揺れて咲く

 この歌詞に私はその時の教科書の表紙まで思い出すほど懐かしさを覚えました。この歌の情景は馬追いが行く青葉の道に真っ白なユリが朝風に揺れている、という爽やかな美しい景色ですが、表題と比べればお分かりのように私は歌詞の「青葉三里」をいつの間にか「青葉千里」と間違えていたことも分かりました。でも、今日はその記憶違いの話なのです。

 恐らく私がこの歌を習った時の印象は果てしなく続く青葉の道をひたすら歩く人(馬追い)というイメージだったのでしょう。それがいつか「青葉千里」になり、やがてそのイメージは心の中で人生そのものとダブりました。人生を譬えるなら青葉千里の道を歩き続けることではないかと思うようになったのです。
 
 徳川家康は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と言いましたが、私のイメージはそんなに重くはありません。もちろん千里の道には楽しく嬉しいことばかりでなくつらいことや悲しいこともあるでしょう。でも、その青葉千里の道を元気に歩き続けることこそ人間の一生ではないかと思うのです。「歩こう歩こう、私はげんき~」って歌いながら。 
 


分け入っても分け入っても青い山
            ~種田山頭火~

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