ぞうさん №144

平成24年6月10日

ぞうさん

先達て、朝のお勤めの後のことです。私が「師匠の寺では花祭りの時、花御堂をぞうさんに乗せるんですよね」と言いましたら、Kさんがけげんな面持ちで「それじゃ手が届かないんじゃないですか」と言われるのです。それを聴いた人達、一瞬ののち大爆笑になりました。Kさんが本物のゾウをイメージしたと分かったからです。

 もちろん、私も「張り子ですよ。張り子のぞうさん」と言いながら笑ってしまいました。しかし、同時に「いいなぁ」と思いました。ぞうさんが花御堂を背中に乗せてゆったりと歩いていく姿は思うだに微笑ましいではありませんか。その発想は明らかに子どもの発想でしょう。私はその景色を思い浮かべながら子どもの発想をしたKさんもいいなぁと思ったのです。

 私たちはみんな子どもの時は純真で素直な気持ちを持っていたはずですが、やがてその純真さを失い、いつしかそれとは反対の自分になってしまっています。しかし、子どもの純真さほど尊いものはありません。 無邪気に全幅の信頼で親を慕う姿はあどけないという以上に私たちの心に迫る尊さがあります。

 人はそこに人間の理想を思ってきたのでありましょう。そう言えば、僧侶が通過すべき伝法という儀式には「嬰児(ように)行」と言われるものがあります。弟子が幼児そのまま膝立ち歩きして師匠のもとに進むと師匠は弟子の頭を撫でて伝法の言葉を発するのです。 弟子はまさに親を慕う子供の姿、仏に帰依する素直な心を象徴しているのでしょう。

 「子どもらと 手まりつきつつ この里に 遊ぶ春日は 暮れずともよし」と詠った良寛さんは子どもたちと同化することが出来たからこそ手まり遊びが楽しかったのだと思います。 それは良寛さんが子ども心を持ち続けていたからこそです。 良寛さんはその心の中に子ども心を失わずに持っておられたのです。

 いま私は私も持っていたはずの純真で素直な心から遠く離れたところにあって子どもの無心に憧憬を覚えてなりません。いつかまたそこに帰りたい、と。

子どもはなおもひとりの天使 いかなる神をも信ぜぬままに
~谷川俊太郎~


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