恐怖・畏怖 №140

平成24年5月10日

恐怖・畏怖



 前号(生者と死者)で戦後、日本が失ったものは目に見えない存在、目に見えない世界に対する畏敬の念ではないかと申し上げました。 この畏敬の念は学習指導要領小学校編にも出て来ますが、実際の指導は大変難しいのが実情でしょう。畏敬の念を言葉で教えると言うのは食べ物の味を口で伝えるより困難という気がします。

 思うに、畏敬の念の根本にあるのは恐怖ではないでしょうか。昨年の大地震・大津波では文字通り瀕死の思いをされた方がいますが、その思いはまさに恐怖そのものであったと思います。容赦ない自然の脅威を前に突然、死の危険にさらされて、それが恐怖でない訳がありません。その恐怖が畏敬の念の根底だと思うのです。

 人間の歴史は一面、自然に対する恐怖の歴史であったと言っても過言ではありません。自然の猛威に無力でしかなかった時代には自然に対する恐怖はいまよりずっと強かったと思います。しかしその反面、感謝と敬意もいまよりずっと深かったであろうと思います。それは畏怖畏敬と呼べるのではないでしょうか。

 宗教の原初的な形態は天地日月山川風雨など自然物や自然現象を崇拝することに始まりますが、これが深まったものが自然宗教と呼ばれる自然物や自然現象に霊魂や精霊等霊的存在を認めるアニミズムです。そしてさらに、自然を司っている目に見えない存在、目に見えない世界に対する畏怖畏敬の念が祈りになり宗教になってきたのだと思います。

 いま私たちの生活は昔に比べて自然から遠く離れたものになってしまいました。しかし、とは言っても私たちがなお自然の中に生きていることは言うまでもありません。そのことを忘れまた無視しても幸運も不運も必ず回ってくるのです。いえ、たとい忘れていなくても恩寵とツケは繰り返されるのです。それは人間の都合とは無縁です。

 そのことを思えば私たちはやはり生かされているに過ぎません。そのことを自覚し天地に、先祖に、そして共に生きる衆生に感謝と畏敬の念を持って生きることが私たちのあり方だと思えてなりません。

守られている ありがたさよ 生かされている うれしさよ 朝に夕に 手を合わせよう
~坂村真民

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