空しく来て… №142

平成24年5月25日

空しく来て…



 先日、師匠の寺に伺った日のことです。この日、ちょうど坐禅会があり、終わった後の「正法眼蔵随聞記」講読が巻一の九「当世学道する人」でした。ここで道元禅師は、仏道を学ぶ者の心得として、次のように言われているのです。

 「近ごろ仏道を学ぶ人は、多くは、法を聞く時、まず理解の早いのをわかってもらおうとして、気のきいたうけ答えをしようと思っているうちに、肝心の聞くべきことを聞きのがしてしまう。結局のところ、道心がなく、自分というものを捨てていないからである。」

 自分を知恵深く見せたいという人情は、鎌倉時代もいまも変わりないんですね。八百年前の道元禅師が“近ごろ”(の学人)とおっしゃっていることには苦笑を禁じ得ませんが、禅師は続けてこう言われます。「法を聞く時は、ただ、ぜひともまず自分というものを念頭におかず、相手の言うことをよく聞いて、それから静かに考えて…(以下略)」(水野弥穂子訳)

 このお言葉を読んで思い出すことがありました。学生の時、漢文の先生が授業の初めに言われた言葉です。先生は私たちに対して「空しく来て満たして帰る」気持ちを持って学んで欲しいと言われたのです。その言葉は先生ご自身が先生の先生から教えられたことであったそうです。その言葉を思い出したのです。

 空しく来て、というのは白紙、空の状態、素直な気持ちで授業に臨むということです。講義を受ける時は先入観や我見を持つことなく、ただ先生の話に耳を傾けるということです。白紙であればそこにどんな色もどんな文字も書くことが出来ます。 器が空ならばどんなものも注ぎ入れることが出来ます。教えを聴く、学ぶということはそういうことなのです。

 道元禅師がおっしゃる通り、私たちはとかく人の話に耳を傾けるより自分の知識や経験を話したくなります。自分の自慢話をしたくなります。しかし、その自分、つまりは我見我慢を捨てて相手の話を聴いて初めて、学ぶということがあるのです。教えを聴く時に素直な気持ちが如何に大切か改めて自戒痛感せざるを得ませんでした。

「柔和質直者 則皆見我身 在此而説法」 心穏やかに素直なる者は皆、私がここに説法するを見る。
~如来寿量品偈~


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