生者と死者 №139

平成24年5月1日

 生者と死者



 先日、宗門山口県第七教区の教区報「四季の禅・第145号」を頂きました。その巻頭に長門市大寧寺の岩田啓靖老師が「誰が為に鐘は鳴る」という題で表題の生者と死者のことを述べておられます。このお話は私たちにとって大変大切なことですので、ここにその一部を引用させて頂いてご紹介したいと思います。

 生者と死者、というのは今から70年ほど前にウィリアム・L・ウォーナーという社会人類学者が著した「ヤンキーシティ・シリーズ」の最終巻の書名でもありますが、地域社会研究の古典と言われるこの書でウォーナーは当時の急激な都市化の中で崩壊していった共同体と生き残った共同体の差の解明に挑んで驚くべき結果を明らかにしたのです。

 ウォーナーの得た結論は、「町の古い創立者や祖国防衛の犠牲となった郷土の英霊たちを崇める共同礼拝やパレードを継承し教会や慰霊碑や記念公園などをふるさとの伝説やエピソードと共に大切に守っている自治体だけが生き残り」、反対に「こうした宗教行事や宗教心性を軽視する町は衰弱し崩壊していった」というものでした。

 この事実から岩田師は次の結論を指摘されます。つまり、『我々の生活が立脚している地域共同体の本質的な力能は、住民たちの力の総和だけでは決してなく、実は「生者」(現在から未来へ)と「死者」(過去から現在へ)が連結して生み出している能力なのである。地域社会は「生者(住民)と死者(先祖)を構成員とする共同体」以外の何物でもない』と。

 師はこの結論から福祉の三次元である「自助」「共助」「公助」の問題に敷衍して、このうちの「共助」は宗教に付託されてこそ実効が期待されるであろうし、私たち寺院が自助と共助を主導するセンターとして勉励に努めなければいずれ地域社会は解体し寺院もまた力を失っていくであろうと警鐘を鳴らしておられますが、誠にその通りですと言わざるを得ません。

 戦後、日本が失ったものは死者や神仏など目に見えない存在、目に見えない世界に対する畏敬の念ではないでしょうか。寺の鐘は誰がために鳴るのか。寺は檀信徒のためにこそ、という岩田老師の警鐘に耳を傾けたいと思います。

祭ること在(いま)すが如くし 神を祭ること神在(いま)すが如くす
 論語「八佾第三」

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