存在を問う №173


平成241217

存在を問う

 このたより№170(凛として)で近年、どの職業においても仕事に対するプロ意識が低下しているのではないかと申し上げましたが、つい先日、これを地で行くようなことに出会いました。まさかーと言いたくなるようなことだったのです。
 
 ことの次第はこうです。その日、私は某お寺の典座(てんぞ)(台所)の手伝いに行っていたのです。法要のお中食、百食の準備のために朝から何人もの方達が忙しく働いていましたが、いよいよ炊飯という時になってガス釜が点火出来ないのです。これは大変、と急いでガス屋さんに来て貰うことになりました。
 
 みんながやきもきしている中、そのガス屋さんが来たのですが、点火を試しては頭をかしげて「何でだろう」と言うばかり。とても早急の対応が出来そうにありません。これは無理と判断した寺は急遽、近くの公民館の炊飯器を借りてどうにか大事に至らず済んだのですが、それが出来なければ、それこそ大失態になるところでした。
 
 難は免れましたが、問題はそのガス屋さんなのです。後で聞くと、何と寺ではその日のために数日前、ガス釜の点検を依頼していたのだそうです。点検をしていながら点火が出来なかったというのは点火を確認していなかったからでしょう。ガスを専門に扱う人間にそんなことがありましょうか。正直、唖然とせざるを得ませんでした。
 
 私が自分のささやかな職業経験から学んだことは、自分の仕事と人生は深いつながりがある、ということでした。何の仕事であれ自分が関わっている仕事には己れの人生を考えるヒントが隠されているという思いです。そして、そのヒントは仕事に一心に携わりプロ意識を持たなければ見つけることが出来ないというのが結論でした。
 
 私は仕事というのは結局、己れを問うことにつながると思っています。仏教の根本は自己究明にあります。自分とは何か、人間とは何かということを究明していくのが仏教ではないでしょうか。生きるというのは仕事を通して自分を深めていくことに他なりません。自らの存在を問う。今回のことで改めてそのことを思いました。




      他山の石以て玉を(おさむ)むべし
             ~詩経(小雅)~


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