死に方考 №186

平成25年3月5日  
死に方考 
 
 310日は寺の三世、大智宏慧大和尚の正当27回忌の日です。宏慧和尚は昭和4年に庵主さんになられていますから、昭和62年にお亡くなりになるまで60年近くこの観音寺をお守り下さったことになります。知る人はみな庵主さんは美しく聡明なお方であったと言います。その人となりを伺う度に私はその遺徳を偲ばずにはいられません。
 
 話は飛躍しますが、人は誰しも死にます。死なない人はありません。ですから、いざ死ぬ時どのように死ぬかが私たちの大きな関心事になります。いつだったか、週刊誌に出ていた理想の死に方アンケート結果を紹介したことがありましたが、いくら自分がポックリを願ってもそれが叶えられるかどうかは別。でもやっぱり気になりますね。
 
 117日、Mさんが亡くなりました。初観音の日です。Mさんは、毎月この観音寺にお布施の定期便を下さっていた篤信のお方でした。お歳は90を越えていましたが、施設はイヤ!とお一人で過ごされていました。しかし、目もご不自由だったこともあり、亡くなる二日前、室内で転倒して動けなくなっているところを発見されたのでした。
 
 発見までどの位経っていたかは分かりませんが、発見された時、意識はしっかりしていて、すぐに危険な状態ではなかったということです。それはお見舞いに行った私も頷けることでした。しかし、その二日後亡くなってしまったのです。訃報に接して私はMさんが、意志的に観音様にお迎えを頂いて逝ったのだと思いました。
 
 自分の意志を貫き、長患いも迷惑もせずかけずの旅立ちですから誠にご立派、羨ましいほどの大往生と申すべきでありましょう。出来ることならそのように、と思うのは私ばかりではないと思います。でも、私はこうも思うのです。仏様からみれば、死に方にいいも悪いもない。いいと思うのも悪いと思うのも人間の勝手な考えに過ぎない、と。
 
 私たちに出来ることは生きることです。死に方は選べなくても生き方は選べます。与えられた命を精一杯生きること。結局それが死に方につながるのかも知れません。この度のMさんの死で考えさせられたことでした。




 

            ねがはくは花のしたにて春死なん
           そのきさらぎの望月の頃 
                      ~西行~



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