桐の花 №195

平成25年5月5日
桐の花



                   桐の花
    
     一面の 畑のかなた 二筋の 煙立つ見ゆ 春の野焼きの
    むらさきの 気高く咲きし 桐の花 去りにし友の 懐かしきかな
 
 先月末、久しぶり山口に、それも二日続けて行くことがありました。上の歌はその道中で見た景色を詠みました。田んぼや畑の野良作業が始まったのでしょう。道々あちこちで野焼きの煙を見ました。野焼きの煙にはどこか懐かしさと共に心弾むものを覚えます。春の農作業には自然の恵みを頂く準備の嬉しさがあるのでしょう。

二首目も道中の景色です。宇部の辺りでしょうか。道際に一本大きな桐の木があって、その桐が紫の花を一杯に咲かせていました。古来、桐は目出度い木とされ五三の桐、五七の桐のように紋章として使われていますが、勲章にも「旭日桐花大綬章」があるように、桐の花は瑞祥と気高さを持った花として愛でられて来たのでしょう。

その桐の花を見て、ゆえ知らずふと亡くなった友人を思い出しました。学生時代の友人M君が昨秋亡くなりました。同級の奥さんは、友人が体調を崩して入院はしたものの、そのまま帰らぬ人になるとは夢にも思わなかったと言います。それなのに肺炎を起こしてあっけなく亡くなってしまったというのです。

身命は露よりも(もろ)し、とは言うものの、あまりのはかなさに本人もご家族もさぞ残念であったことでしょう。友人は入院中も仕事のことを話していたそうです。奥さんは、死ぬ気は全くなかった夫君を思うと可哀そうでならないと言います。覚悟の上の死であればあきらめもするでしょうが、思わぬ死には無念が残ります。

しかし、あの大震災、大津波の犠牲者がそうであったように、今生の力を残して逝った魂はその力を霊界で発揮してくれるのです。友人の死もそれであったのでしょう。その力を必要とされての死であったのだと思います。好男子だったM君、きっと今は霊界で快活に活躍してくれているに違いありません。


  
                                     手にとれば 桐の反射の 薄青き 
               新聞紙こそ 泣かまほしけれ 
                   ~北原白秋「桐の花」





 

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