また「色即是空」考 №214



また「色即是空」考


平成25年8月8日

 前号でインドのカジュラーホー寺院群を紹介いたしました。そこで申し上げましたが、あの寺院群が意味するところは、人間の現象と本質を見事に表わして見せたということではないでしょうか。人間は肉体を持った存在であると同時に霊的な存在であることを的確に表現したものがカジュラーホー寺院群だと思うのです。

 「空」を考える時、もう一つ、カジュラーホー寺院群と同じようなイメージで思うことがあります。それは「老子」の第25章です。この章は誠に不思議な叙述なのです。その前半はこう書かれています。

 「物有り混成(こんせい)し、天地に先立って生ず。寂兮(せっけい)たり寥兮(りょうけい)たり、(ひと)り立って()わらず、周行して(しか)(つか)れず、(もっ)て天下の母()るべし。」

 小川環樹さんは、これを次のように訳されています。「形はないが、完全な何ものかがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなくがらんどうで、ただひとりで立ち、不変であり、あらゆるところをめぐりあるき、疲れることがない。それは天下(万物)の母だといってよい」 皆さんは、これをどのように解釈されるでしょうか。

 私は宇宙神を言っていると思いました。老子は政治哲学でもあり、この章もその側面は持っていますが、この部分に関しては、神について語っているとしか思えません。「天地に先立って生まれた形なく完全なもの」であり、「天下(万物)の母」たるものと言えば、それは創造神以外ではあり得ないと思うのです。

 その存在を老子は「寂寥」と言う言葉で表わします。「寂」とは「静か。音がしない」ということです。「寥」とは「うつろ。ガランとしている」ということです。老子は万物の母である何ものかは「静かでガランとしている」というのです。老子はこのものを強いて言えば「大」、また言えば「逝」、また言えば「遠」、また言えば「反」だと言います。

 この言葉、大、逝、遠、反、には宇宙の膨張と縮小という永遠かつ無限の反復さえ思わずにはいられません。そして、それこそが「空」であるとすれば、その空を母とする私たち人間もやはり永遠の存在ではないでしょうか。「色即是空」とはそのことを言っているのではないでしょうか。


     人は地に(のっと)り、地は天に法り、
      天は道に法り、道は自然に法る。
              ~「老子」第25章~

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