花は仏③ №235



花は仏③
平成25年12月1日 

 観音寺には4人のお花守がおいで下さいます。本堂須弥檀と歴住仏壇、位牌棚にお二人。本堂玄関にお一人、境内の仏さまにお一人です。お蔭でこの観音寺は内も外も、いつも四季折々のお花が飾られて絶えることがありません。みなさんボランティアでして下さっているのです。こんなお寺は滅多にないでありましょう。有難いことと思います。

 先日、そのお一人のSさんに「最近花が寄ってきていませんか」と言われて、なるほど、という思いがありました。確かに最近お花をお供えして下さる方が多いのです。もちろん時期的なこともあるでしょうが、Sさんの「寄ってくる」という言葉に私も不思議を共感しました。花が花を呼ぶということなのでしょうか。

 お蔭でこのお寺はお参りの方にいつもお花を楽しんで頂けています。ご本尊の観音様にはそれにふさわしいお花を活けて下さってありますし、玄関のたった一本の山野草が、時には清らかな、そして時には凛とした空間をつくってくれることもあります。多くなった水子地蔵さんお参りの方もまずほっとして頂けるのはお花ではないでしょうか。

 私たちが花に感じるのは癒しだと思います。その癒しはお花の色、形、香りに由来するのではないでしょうか。花の色、形、香りはどれ一つ同じものはありません。どうしてあのような形、あのような色をつくれるのか。今活けて頂いているビワはどうしてあのように気品に満ちた香りを出せるのか。私はその不思議の中に花の力があるのだと思います。

 以前申し上げましたように、花は葉が変身したものです。この変身(メタモルフォーゼ)は、植物が生長繁茂から開花結実に移行する時に起きるのです。生長繁茂の時は食の相、開花結実の時は性の相、その食の相から性の相に移行する時に葉が花に変身するのです。私はそこに不思議以上の驚きを覚えざるを得ません。

 私が「花は仏」と思うのはそこです。葉の花 への変身は、植物が本来持っている力、あるいは姿に到達すること、仏に変身することだと思います。私たち人間も全く同じだと思います。本来仏である私たちが仏であることに気づくことが悟りではないでしょうか。花はそのことを教えてくれているのです。


   仏というも、悟るというも、名は変われども同じ道なり。
   わが本心を悟る人を、すなわち仏と名づくるなり。 
                      ~一休禅師~

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