「ホンモノ」どころか №246

「ホンモノ」どころか №246
平成26年 2月17日


「ホンモノ」どころか 
 
 突然ですが、「匙箸袋」って何と読むと思いますか。それより「匙箸袋」って何だと思いますか。多分、ほとんどの人にとって初めて耳にする言葉ではないかと思いますが、読み方の正解は「「()(じょ)(たい)」。「()」はサジ、「(じょ)」はハシ。簡単に言えば“箸袋”です。その袋を「しじょたい」とは、往時、軍隊が物干し場を「ブッカンジョウ」と言った類ですね。
 
 何でこの話かと言えば、兄弟子のS師からお年賀にこの「匙箸袋」と膝かけを頂いたからです。修行僧は食事を頂くときに応量器という個人持ちの器を使いますが、この箸袋も膝かけもその応量器に必要なものです。修行僧が使うのは木綿製ですが、頂いたのは縮緬のお洒落なもの。しかし、私には布地以上に身に沁みて思うことがありました。
 
 申し上げましたように、修行道場での毎日の食事は応量器を使います。応量器を使わない日はまずありません。少なくも朝・昼の食事には必ず応量器を用います。修行僧は応量器で頂く食事によって食べ物の有難さと食べ物への感謝を学ぶのです。私たちの命を支えてくれる食べ物は動物であれ植物であれ皆命です。その命の貴さを応量器で学ぶのです。
 
 しかし、修行道場を去れば、この私のように殆どの人は日常的に応量器を使うことはなくなってしまいます。それは端的にいえば、初心を忘れるということです。兄弟子S師は役寮としていまも永平寺におられますから日常的に応量器を使っておられます。そのS師が年賀として匙箸袋を下さったことに私は忸怩たる思いを禁じ得ませんでした。
 
 恐らくはその思いがあったからでしょう。一月も末近いある朝、突然私の心に「自分は本物どころか偽物にも成り得ていない」という思いが浮かびました。妙好人、因幡の源左はある人の問いに「偽になったらもうええだ。なかなか偽になれんでのう」と答えたと言います。私たちが本物になることは至難です。せめてもの望みは真似することです。
 
 真似は本物ではありません。偽物です。でも、それを繰り返していけば本物に近づけるに違いありません。私たちがしていることはお釈迦様の真似です。その真似がいつ本物になれるかは分かりません。ただ繰り返すばかりです。まずは真似を繰り返すしかありません。倦まず弛まず、です。

 

 
         日暮れて道遠し
             史記(伍子胥伝








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