「ふれあい」考 №272

「ふれあい」考 №272
平成26年7月1日


「ふれあい」考   

 先達て続けて二人の方から「ふれあい」の話を伺いました。いま「ふれあい」と記しましたが、仮名交じりで書けば「触れ合い」ですね。しかし、伺った話は“触れ愛”と呼びたいものでした。
「触れ合い」は「互いに触れること」。端的にいえば「お互いの接触」ですが、それを「触れ愛」と呼びたいと思ったのは触れることがそのまま“愛”という話だったからです。
 
 その一つは、ご主人の縁者である百歳を越えた女性の看護をされていたUさんの話です。毎日お見舞いに行っての帰り際、Uさんがその方の頬に頬をつけて「またね」というと、「えぇなあ、有難う」と本当に嬉しそうに言われたのだそうです。その女性はその後間もなく亡くなられたのですが、Uさんの頬ずりできっとよい最期を迎えられたに違いありません。
 
 もう一つは、看護師のMさんの話です。人はたとえ認知症になっても感情や自尊心は変わらないと言いますが、Mさんはそんな人のベッドに行く度、手を握ってあげるのだそうです。すると、一見感情まで失われたように見える人まで、明らかに喜びの表情を見せるというのです。まさに手を握ることイコール愛、ではありませんか。
 
 二人の話を伺って若い時のことを思い出しました。もう40年以上も前になりますが、東大医学部に始まった医学部闘争がありました。その頃、私はある医学雑誌の記者をしておりましたので、この闘争の中心になった医学生達に接する機会がよくありました。そんなある日、取材に行った学生たちのたまり場で、その“名言”を聴いたのです。
 
 多分、雑談の中で恋愛の話になったのでしょう。医学生達にとっても恋の話は一大関心事であったでしょうが、その話の中である学生が「愛は接触だ」と言ったのです。誠に端的な言い方ながら同年代の私はその言葉に感嘆でした。恋人同士が手を握りキスをするというのはまさに接触以外の何ものでもありません。
 
 しかし、考えてみれば、この互いの触れ合いは恋愛に限りません。すべての愛の根底にあるものが触れ合い、接触ではないでしょうか。お母さんが赤ちゃんを抱くこと、おんぶすること、頭を撫でること。これも“触れ愛”。そういえば、握手もその根底は触れ愛に違いありません。Uさん、Mさんによいお話を頂きました。

 

…母の(ふところ)寝処(ねどころ)となし、
母の膝を遊場(あそびば)となし、母の乳を食物となし
母の情を()(のち)となす。     
          <父母恩重経>









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