続・まちづくり №275

続・まちづくり №275
平成26年7月17日 

 続・まちづくり
 
 四国はお大師さんが生まれ育ったところだけに、歩いていると札所だけでなく、町村あちこちに大師堂を見ることができます。大きさはまちまちです。お像だけが祀られている小さなものもあれば、人が何人か座れるようなものもあります。小さなものはこの小月界隈でも二三見ることができますが、この大師堂の存在は何を意味するのでしょうか。

 前号「まちづくり」(№274)で、地域共同体の復活を考える時、そこには死者との関わりが必要なことを申し上げました。紹介したウィリアム・ウォーナーはその研究で、共同体存続の決定的な力となったのは、郷土の偉人英雄の霊を崇め続けていたことだったと結論していますが、実はこの大師堂も郷土の先賢を崇め続けること以外何ものでもありません。
 
 先月のお遍路で大洲市のはずれを歩いていた時です。道際に十畳ほどの広間を持つ立派な大師堂がありました。尋ねると、その地域ではふた月に一度、住民がその大師堂に寄りあってお大師供養をしているといいます。寄りあえば地域の話題もでることでしょう。話を伺って私はその大師堂が地域の精神的な要になっていることを知りました。
 
 ウィリアム・ウォーナーは「地域共同体の本質的な力能は住民たちの力の総和だけではなく、実は生者と死者が連結して生み出している能力である」と言っていますが、地域の人が大師堂に寄りあって郷土の偉人の供養をし、その供養を続けることによって、住民同士の精神的連帯を維持していることこそ真の共同体と言えるのではないでしょうか。
 
 考えれば現代の日本は、上にあげた大洲市の一地域のような稀有なあり方からは遠くなっていると思います。都会では隣同士で暮らしていても、言葉を交わすどころか挨拶さえしないということも稀ではありません。いわんや昔からの地域行事はなくなる一方。この小月でも組でしていた421日のお大師さん接待は、年ごとに少なくなっているようです。
 
 人間にとって暮らしやすい社会はどのようにあるべきか。それはその地域が、地域の住民が考えなければならないことです。誰かがしてくれることではありません。自分が、自分たちがする以外ありません。廃れつつある伝統行事の復活に取り組むことは、人に元気を与えてくれるに違いありません。皆さん、頑張って下さい。



           祖先とは遠き昔にありて、
           しかも現今に子孫の上に
           生きつつあるものである。
                   金子大栄







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