恭順心 №315

恭順心 №315
平成27年 4月  8日


    
          明澄爽快清明晨     明るく澄んだこの(あした)
     花咲山笑万物新     花咲く山も粧い新た
     今日仏陀降誕会     花祭りの日に祈ります
     恭順前仏祈真人     み教え守って生きること
 
お釈迦様はお生まれになるとすぐ七歩あるいて右手を上げ「天上天下唯我独尊」と言われたと言います。この唯我独尊という言葉については、以前このたよりでも二度ほど参究しましたが、最近ふとこの唯我の「我」とは童子を指しているのではないかと思いました。お生まれになってすぐということは、赤ん坊であることに意味があるのではと思ったのです。

これは何度も申し上げていることですが、神仏への祈りで最も大切なことは、如来寿量品偈にいう「質直意柔軟」、即ち「心素直でしなやか」ということです。上の法語の「恭順」も同じです。「恭」は「両手で捧げ持つ」という意味の「共」と「心」の合字で「(うやうや)しい」と読みます。うやうやしい、とは「慎み深く丁寧」ということです。

恭順の「順」は「(したが)う」と読みますが、この字には「素直」という意味があります。従順という言葉がある通り、順とは「逆らわず素直に従う」という意味です。ですから、恭順とは「礼儀正しく慎み深く素直に従う」という意味になります。仏道を学ぶ者はお釈迦さまに対して恭順でなければその教えを得ることは出来ないのです。

文字の説明が長くなってしまいましたが、ではその恭順の心を持っているのは誰かと言えば、先ず赤ん坊、童子でしょう。赤ん坊は自我を持っていません。無我無心です。私利私欲がありません。あるのはひたすらだけ。だからこそ、どんなことも受け入れどんなことも獲得することが出来るのです。
 
 善財童子は無心の童子だからこそ求道の菩薩なのです。素直だからこそただひたすらに仏道を求めていくことが出来るのです。お釈迦さまが生まれてすぐに唯我独尊と言われたのは童子心、無心の大切さかも知れません。
  


         無心の赤ん坊の笑いに誘われて 
         私も思わず無心に笑い返した 
         そして、母親も無心に微笑んだ   
                        <相田みつを>










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