「悼む人」 №317

「悼む人」 №317
平成27年 4月17日

「悼む人」
 
 ある日突然、一人の若者がやってきて地に膝まずき、胸に手を合わせて「あなたは思い出す。誰に愛され、誰を愛していたか。……」とつぶやくのを聴けば、見る人はそれを奇異と思うに違いありません。しかし、その悼みこそが不慮の死、不条理な死を強いられた人の生を永遠にするものではないのか。それが映画「悼む人」(堤 幸彦監督)の主題です。
 
 映画の原作、天童荒太さんの同名の作品「悼む人」の着想を、天童さんは20019.11のアメリカ同時多発テロ事件とそれに対する報復攻撃で多くの死者が出た時に天啓のように得たと言います。世界に満ち溢れている不条理な死、それに対して無力感しかない時、天童さんが悼む人という着想を得たのはむしろ自然であったかも知れません。
 
 あの9.11からもう15年になりますが、不条理な死はいまなお世界中に起きています。一月にはIS過激集団によるテロで湯川・後藤さんのお二人が道半ばの命を奪われました。つい先日はドイツの飛行機が精神を病んだ操縦士の自殺行為によって山中に墜落し、150人もの乗客が亡くなりました。ともに無念だけでは収まらない不条理な思いを拭いきれません。
 
 映画の主人公、悼む人の静人自身、自分が何に突き動かされているか分からないまま、巡礼のような旅を続けます。そして、その旅をしながら「生を奪われた」死者に「誰に愛され、愛したか、どんなことをして感謝されていたか」と語りかけ、それを記憶する愛によって、死者の死を永遠の生に変えようとするのです。
 
 ここで「悼む」というのは、私の言葉で言えば「祈る」ということです。死者に対する祈りを供養と言いますが、供養は祈りそのものなのです。亡き人のありし日を思い浮かべて互いの魂を交流させ、生者の祈りの力を送ることが供養なのです。不慮の死を遂げた人に語りかけて悼む人、静人の儀式はまさにそれでありましょう。
 
 私は毎年四月、小月第9区の殉難慰霊供養をさせて頂いております。今年もこの25日に行うことになっていますが、これは「悼む人」と同じ儀式です。不慮の死を遂げた人の記憶を新たにし、魂の存在を確認することによってその生を永遠化させようとするのです。私はその慰霊を8年もさせて頂いていることを感謝してやみません。

 

          人の死を数字や統計として見るのではなく、
          個人としての生き方を思うことが
          <悼む>ということだ。  
                                     五木寛之








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