断想 №329

断想 №329
平成27年 7月 1日


 断 想  
 
 幼い頃、妙な癖がありました。ある曲を聴くと決まって同じイメージ、景色が浮かぶのです。曲に景色を連想していたのかも知れません。曲と景色はセットなっていました。しかし、その知らない景色がとてもリアルなのです。今思えば、それは音楽が惹き起こすデジャビュ(既視体験)であったのかも知れません。
 
 今ではその妙な癖はほとんどなくなりましたが、似たようなことで一つだけ、この梅雨時、毎年のように思い出すことがあります。蒸し暑さを覚える曇り空の下、ピアノの音がする廃園にバラが咲いている景色です。けだるい曇り空の午後ふっと、遠くからピアノの音が聴こえる廃園に佇む自分が思い浮かんでくるのです。
 
 どうしてこの季節、その同じイメージが思い浮かぶのか分かりません。でも一つ、このイメージによく似た体験があります。二十代初めの頃です。時折、仕事で市ヶ谷に行く用事があり、その界隈を散歩することがありました。今はどうでしょうか。その当時、東京の真ん中の市ヶ谷に閑静な住宅地の一画があったのです。
 
 その日は梅雨時の曇り空でした。散歩の途中、僅かばかりの庭にアサガオを育てている家がありました。ごくごく一般的な普通の家です。垣根越しにその庭を見て私はそこに住む人を思い巡らしました。ゆえもなくその家には足の不自由な女の子が住んでいるに違いないとまで勝手な想像をしたことを覚えています。
 
 その体験と思い浮かぶピアノが聞こえる廃園のイメージが、つながっているのかどうかは分かりません。共通するのは“梅雨時の曇りの日”ということだけです。しかし、もう50年も前の些細な体験を未だに覚えているということは、自分にとって「梅雨時のけだるい曇り空」に何か意味があるに違いありません。
 
 記憶というのは不思議なものですね。人間の記憶はすべて残っているとも言われます。記憶は失われるのではなく思い出せないだけと言います。私たちのこの世での記憶、いや前世の記憶も一つとして失われることなく何かをきっかけに再びよみがえるのかも知れません。不思議を越えて怖さを覚えます。

 

          ものすべて すべてそこより (いづ)るとふ
           いのちの海よ あらやしきこそ























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