教育は祈り2 №342

 教育は祈り2
平成27年10月1日 

 先日のたより№333「教育は祈り」で、重い障害を持った子どもは着る、脱ぐ、食べるなど生活の一切を他に委ねます、と書きましたが、これを読んで下さった神奈川県のYさんから「重い障害の子ほど生活だけではなく、その感情さえも回りに委ねる一面があると思います」という思わずびっくりのお便りを頂きました。

 感情さえも回りに委ねる、とはどういうことなのか。私は見当がつきませんでした。で、Yさんにその意味をお伺いしたのです。Yさんは自閉的傾向の娘さんをお持ちですが、そのYさんがおっしゃるには、例えば人との交わりというような楽しみは、娘さんがそれを感じられる場や機会を親が提供しなければ味わうことが出来ないというのです。

 伺って自分がこれまでそこに全く気づいていなかったことに恥じる思いでした。Yさんは「(娘さんは)水を楽しむというような感覚的な楽しみは出来ても人間関係がもたらす楽しみは親が環境を作ってあげなければそれを体験することが出来ない。だからこそ目に見えないもの、心を育てることを肝に銘じています」とおっしゃるのです。

 敬服でした。障害児を持ったお母さんの中には、時にそのことによって驚くべき人間的成長を遂げられる方がおいでですがYさんもそのお一人です。障害を持って生まれるということは障害者自身に大きな意味がありますが、同時に人間存在を考えるために周囲の人、取分けお母さんには大きな意味を持っているのです。

 神秘学では、若し人が外部との接触を断たれた牢獄のようなところで一生を過ごすと、その魂は正しい生まれかわりが困難になると言いますが、これはとりもなおさず人間にとって生存中の体験や経験、特に人間同士の交わりが如何に大切かということでありましょう。娘さんにその体験を提供しているYさんに敬服するのはそのことです。

 これは同時に私たちみんなに共通することです。人間に生まれてお互いに体験、経験をすること、嬉しいこと楽しいこと、悲しいこと腹が立つこと、沢山の喜怒哀楽を経験することが次の生の原動力になるのです。人生の喜び悲しみを存分に味わうこと、それは精一杯、一生懸命に生きることに他なりません。
 

     星をかぞえて 波の音きいて 
     ともにすごした 幾年月の 
     喜び悲しみ 目に浮かぶ目に浮かぶ
     「喜びも悲しみも幾年月」

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