人はみかけに… №349

人はみかけに…

平成27年11月16日
 最近この類のニュースを聞くことがありませんが、以前よく、その生活が質素としか言えないほどに見えた老齢の女性が亡くなった後、自宅から驚くほどの大金が見つかったという話がありました。周囲の人が貧窮の人と思っていた方が、実は大変なお金持ちであったというのは、まさに「人はみかけによらぬもの」でしょうか。

 この「人はみかけによらぬもの」という諺は、人の性質や能力などは外見だけでは判断が出来にくいという意味ですが、先日のたより№347(人生遍路)で、遍路ご一緒だった紅一点のMさんが「颯爽」であったと申し上げましたら、そのMさんから「よれよれだったのに恥ずかしい」と謙遜のお便りを頂きました。

 で、思い出しました。寺山修司さんは、この諺「人はみかけに…」を「人はみかけによるもの」と言われたのです。考えれば全くその通りなのです。見かけによらぬ人は1%、後の大半は見かけによる人なのです。99%は見かけ通りでしょう。だからこそ、この諺があるのです。寺山さんの言葉に共鳴したことが忘れられません。

 話を「颯爽」に戻します。私がMさんを「颯爽」と感じたのは、むろんそのお見かけによっています。ご本人は逆にお思いだったかも知れませんが、傍目に颯爽と見えれば、Mさんは颯爽の人なのです。自分が思っている自分より人が思う自分の方が当たっているということはよくあることですね。見かけというのはまさに他者による評価なのです。

 話は飛躍しますが、祈りの人はどう見られるべきでしょうか。見かけどおりに祈りの人であれば素晴らしいと思います。キリスト者として一生を貫かれた三浦綾子さんはその典型のお方だと思います。その一方、仏教者の中には高い境地に至ってなお市井の凡人然として過ごす人もあります。これはまさに「見かけによらぬ」人でありましょう。

 でも考えれば、人は見かけによってもよらなくても自分に真実に素直に生きることが大切ではないでしょうか。人がそれを見かけどおりと思っても見かけによらぬと思っても自分に偽りなく真実に生きることこそ大事ではないでしょうか。そう思って内心忸怩たる思いを禁じ得ません。

     人知らずして(うら)みず、亦た君子(くんし)ならずや
             ~論語「學而第一」~

0 件のコメント:

コメントを投稿