親はなくとも… №369

親はなくとも…
平成28年4月8日 

 「親は無くとも子は育つ」という言葉があります。これは「たとえ親が早く亡くなっても子どもはどうにか成長していくものである。世の中のことはそんなに心配するほどのことでもない」という意味ですが、今回はこの言葉をこじつけ承知の上でやや違ったとらえ方をしてみたいと思います。

 今日四月八日、花祭り法会のご案内葉書に「人はみな親を(なら)いて親となり釈迦を慕いて仏とぞなる」という拙詠を記しましたが、これは星祭の折にも申し上げましたように、生物は生きていく上でモデルが不可欠であり、それは人間も全く同様、モデルなくして親にも人にもなれないということを申し上げたかったからです。

 冒頭の成句のように、親が早く死んでも子どもは何とか育っていく、というのは人の世の温かさとも言えますが、ではその温かさとは何かと考えると、それは親の代わりをしてくれる人がいるということだと思います。親のない子が育つのは、親の代わりになってくれる人があってこそです。人は誰しもモデルに倣って生き方を学ぶのです。

 今では死語同然になってしましましたが「私淑(ししゅく)」という言葉があります。直接には教えを受けてはいなくても、その人の言動を模範として学ぶという意味です。人は直接であろうと間接であろうと模範、モデルを得て自分の生き方が決まるのです。独自の生き方をすることがあっても、まずはモデルに学ばなければなりません。

 では、人間の究極のモデルは誰でしょうか。それこそがお釈迦さまです。お釈迦さまは私たち人間のために人間として生まれて下さり、人間の究極のあり方を示して下さいました。お釈迦さまは本来如来様ですから人間に生まれる必要はないのですが、敢えて人間に生まれて人間という存在の本質を教えて下さったのです。

 人間は人間であると同時に仏です。しかし、この仏は意識せず修行なくしては現われません。己がうちの仏に気づき仏そのものとして生きることは何百何千生を繰り返しても難しいのです。その努力を繰り返すのが私たちでありましょう。お釈迦さまはその努力の大切さを教えて下さったのです。珍重。
 

        かしこくして 忍ぶことを知り (いまし)めをたもつ聖なる者
        かくの如き善士(ひと)に 随い行くべし 
                              ~法句経~


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