「ナム」考 №386



平成28年7月17日 

「ナム」考

 ナムと言えば、皆さますぐに「ナム阿弥陀仏」を連想されると思いますが、このナムは「ナム観世音菩薩」「ナム釈迦牟尼仏」「ナム地蔵菩薩」等々様々な仏さま、菩薩さまにも使われますね。それはこのナムという言葉が「帰依」という意味だからです。ナム阿弥陀仏と言えば、「私は阿弥陀様に帰依いたします」ということなのですね。

 ナムは普通「南無」と書きますが、この「南無」はサンスクリット語のnamasあるいはnamoの音写ですから漢字に意味はありません。その意味は上に申し上げましたように「帰依」とか「帰命頂礼」と訳されますが、ナムはそもそも「敬意を表すために体を折り曲げる」というのが、その原意と言います。

 なるほど、です。帰命頂礼というのは五体当地。両膝・両肘・額を地につけて礼拝する最高の礼法ですが、これがナムの本来の意味なのです。帰依というのも同じです。帰依とはすぐれた存在に対して自己の身心を投げ出して信奉することです。 身心を投げ出すというのは、端的にいえば「降伏」です。偉大なる存在に身を任せるということです。

 となると、このナム、言うは易く行うは難し、ではありませんか。まず、降参・降伏が素直に出来ません。我見・我執があるからです。神仏の力は実はこの我見・我執を離れなければ知ることが出来ません。そしてそれを知り得た時、私たちの心に生ずるのが、身心を投げ出して一切をお任せするという思い、祈りなのです。

 いつだったか申し上げたことがあると思います。一口に「祈願」と言っても祈りと願いとは根本的に違います。願いが私たちの勝手な要望とすれば、祈りとは大いなる存在に帰依し、その大いなる存在と一体化するということです。ナムというのは実はこの祈りなのです。ナムアミダブツとは阿弥陀様との一体化を祈ることなのです。
 
 申し上げましたように、ナムを実践することは容易ではありません。まずは我見・我執を減らしていかなければなりません。誤った考え、偏った考えを改め、少欲知足に努めなければなりません。素直な心を取り戻さなければなりません。祈りの時を持たなければ なりません。これはみんなトレーニングです。 

わしが阿弥陀になるじゃない、
阿弥陀のほうからわしになる、
なむあみだぶつ。
       ~妙好人・浅原才一~

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