馬鹿まるだし №387

平成28年7月18日

馬鹿まるだし



 前号(「ナム」考)を考えていて思いました。大いなる存在に対して素直な気持ちで向き合うということは童心に返ること、それは端的にいえば「本来を生きる」ということではないかと。馬鹿まるだしという言葉がありますがまさにそれ。馬鹿まるだしに生きることこそ仏への近道ではではないかと思えてきました。

 よく「馬鹿になる」ということが言われますね。でも「馬鹿まるだし」はそれとは違うと思います。自分の意思を抑えて我慢するという類は、馬鹿になるということでしょうが、馬鹿まるだしはそれではありません。人から「馬鹿ね~」と言われながら、むしろ使命、生きがいのようにその馬鹿なことに突き進んでいくのが馬鹿まるだしではないでしょうか。

 余談になりますが、1964(昭和39)年に山田洋次監督、その名も「馬鹿まるだし」という映画がありました。「男と見込まれちゃ、この安五郎、断るわけにゃまいりやせん」と無鉄砲に突き進む安五郎(ハナ 肇)の生き方には周囲ハラハラ、文字通りの馬鹿まるだしですが、その生き方には共感と感動を感じずにはいられません。

 それはなぜか。そこに一途の思いがあるからです。人から馬鹿と言われようが嘲られようが自分がしたいと思ったこと、しなければならないと思ったことに迷わず突き進んでいくこと。そこには一途の共感があります。一途の感動があります。仏さま、観音様が喜んで下さるのはその一途の思いではないでしょうか。

 私たちはとかく世間体に捉われます。人によく思われたいというへつらいの心があります。そんなことしたら自分が損をするという損得勘定が働きます。つらいことはしたくないという怠け心が生じます。こんなことを知っている、こんなことが出来るといううぬぼれがあります。その一つひとつが素直とは程遠い我見・我執です。
 
 そんな我見・我執を捨て去って一途に進むこと。馬鹿まるだしの人生を生きること。宮澤賢治が言うように「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」生きる生き方こそ本当の人生ではないでしょうか。馬鹿まるだしの生き方こそ人生の模範 だと思えてなりません。


いちずに 一本道
いちずに 一ッ事
       ~相田みつを~

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