「守る」ということ №416

「守る」ということ
平成29年1月17日

 最近、事件事故が起こる度に被害者や犯人と思われる映像が出されることが普通になりました。その映像は建物の中であったり街路であったりしますが、いずれにしても逆に言えば私たちは防犯カメラによって常にそれほど監視されている状態にあると言えます。肖像権うんぬんの前に監視社会になっていると言えましょう。

 昨年12月、クリスマス市にトラックが突入したテロ事件を受けて、ドイツ国内ではいま公共施設に防犯カメラを増設するよう求める声が高まっていると言いますが、ベルリン市は増設を拒否していると言います。東西冷戦時代がそうであったように、行き過ぎた監視社会は平穏な日常とは相容れない嫌悪すべきものがあったからでしょう。

 実はこれは映像だけのことではありません。マイナンバー法も同じだと思います。すでに法が作られ何かにつけてマイナンバーの提示が求められるようになりました。会社員の方は言うまでもなくでしょうが、私たちも市役所の届けや銀行での預貯金にこの提示が必要になってきています。やがてはかかりつけの医療機関にも及ぶことでありましょう。

さらに驚いたのは、昨年末強行採決で成立した例の「カジノ法案」の最も重要な施策は「来場者に対する徹底した個人情報管理」だというのです。ギャンブルに夢中になっているうちに個人データと人工知能(AI)によってその人の心の動きから行動の予測までが可能になるというのです(16/12/23 毎日新聞「経済予測」鈴木幸一氏)

 一向に止むことのないテロ事件や読み解きが困難な事件が増すに連れてこの人間世界は是非もなく監視管理社会になってしまうのでしょうか。それは21世紀を生きる人間にとっては希望のない世界です。私たち人間は観音さまだけが見ていてくださればよい。観音さまだけにすべてを見ていて頂きたいと思うばかりです。
 
 守るというのは、目(ま)・守(もる)。目でじっと守ること、見守ることが原意です。これこそが「観世音」さまなのです。常に私たち衆生のすべてを見守り下さり火急の困難に救いの手を差し伸べて下さるのが観音さまなのです。人間同士が疑いの目で監視し合う社会でなく観音様の守りの世界に生きたいと願って止みません。

 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音
 暮念観世音 念々従心起 念々不離心



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