平成29年6月12日
昨年春、このたよりで「祥子さん桜」のことを申し上げました。亡くなった祥子さんが下さった桜の勢いがなくて心配していたところ、花が二輪咲いてほっとしたことの報告でした。でも、なのです。その後、夏の暑さが応えたのか祥子さん桜は再び生気を失い、秋深まる頃にはまるで枯れ木同然になってしまったのです。
何度確かめても幹が生きている様子は見えません。致し方なく寒中、根元から30㎝程を残して伐りました。最後の望みは根が生きてくれているかどうかです。そして春。境内のソメイヨシノは一斉に見事に咲きました。しかし、祥子さん桜はそのままです。何の変化もありません。やはり駄目だったかと思うばかりでした。
でも、なのです。ある日ふと見ると、伐り残した幹の先端にポチっと小さな赤い芽が見えるではありませんか。思わず手を叩きたい気持ちでした。根は生きていたのです。その根がまた新しい枝を伸ばそうとしているのでした。昨年二輪の花を見た時と同じように、よかったと安堵に胸をなでおろす思いでした。本当に嬉しかったです。
いま、その新しい小枝が二本元気に葉を繁らせています。花が咲くまでにはまた何年か掛かるでありましょうが、それを楽しみにしたいと思います。でも、今回しみじみ思いました。祥子さん桜に「咲いた枯れた」と一喜一憂するのは、私がその桜に祥子さんをなぞらえているからにほかならないと。
考えてみれば、私たちが普段目にしている観音様、お釈迦様、阿弥陀様などの仏像もそれぞれの仏様をなぞらえたものです。同じように、目に見ることのできない死者をなぞらえたものが位牌であり墓碑でありましょう。神仏の依り代とされる樹木や岩や動物などもそのものを神仏になぞらえ見立てるからです。

うつそみの人なる我や明日よりは
二上山をいろせと我が見む
~大伯皇女(万葉集)~
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