紅葉吟詠’17 №461

紅葉吟詠’17
平成29年12月1日

 先日1123日、今年も長門市俵山木津の西念寺さんの紅葉を拝見に参りました。今年は見頃を過ぎて多くが散ってしまっておりましたが、門前のイチョウは見事でしたし紅葉もそこかしこに風情を楽しむことが出来ました。そんな中での拙詠数首、その折の思いを交えながらご披露申し上げたく存じます。

    午後の陽を受けていよいよ透き通るいてふ黄葉の風に揺らぎぬ

    午後の陽にあざやかさ増す濃き紅葉泣けとばかりの青空の中

 上の二首、一首目は傾きかけた日の光に透き通るようなイチョウを詠みました。散りゆく前の美しさというのでしょうか。散る寸前の葉が風に揺らぐ姿は胸に迫るものがありました。その意味では二首目も同じです。真っ赤な紅葉に透けて見える青空を見ていると、泣けてきそうに目に沁みるものがありました。

    森閑ともの音ひとつせぬ谷にかすかに揺れる木漏れ日のあり

    紅葉散る森の小径を歩むとき我にささやく声聴く気する

    音立てず微かに枝を揺るがして白き冷たき風吹いてゆく

 今年もあたりは静かそのものでした。その静かな小径の斜面に木漏れ日が見えました。日が差し込む小枝の揺らぎででしょう。その木漏れ日がかすかに揺れていました。それを見ながら歩いているとふと誰かが何かが自分にささやくような気がしてなりませんでした。

    もみじ道かそけき音に歩みつつ思ひの家の来し方行く末

    もみじ踏み歩む心に聴こえくるオーイオーイと若き日の歌

    今年また紅葉見ながらしみじみと思ふ思へば遠くへ来たと

 今年はなぜか若い頃のことが胸をよぎりました。もう滅多に歌うこともなくなった若い頃の歌が瞬間ふと懐かしく思い出されました。

一首目「思ひの家」は「思ひ」の「ひ」を「火」にかけて「火の家」つまり「火宅」、現世という意味の古語です。最近自分が時間的にも空間的にも思ってもみなかったところに来ているという気がしてなりません。
 
   思えば遠くへ来たもんだ
  この先どこまでゆくのやら
              ~唄・海援隊~
 

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