永眠と逝去 №463

永眠と逝去
平成29年12月17日

 毎年、11月も半ばを過ぎると年賀欠礼のはがきを頂きますね。「喪中につき…」という例のはがきです。先達て今年頂いたはがきを見ていてふと気づくことがありました。はがきには申し合わせたように「永眠」という言葉が使われているのです。思わずへぇーっでした。ということは「永眠」は喪中はがきの常套語なのでしょうか。

 ところで、この「永眠」という言葉に皆さまはどんなイメージをお持ちでしょうか。ひょっとしたら「安らかな眠り」とお考えの方が多いのかも知れませんね。しかし、私はどうもこの言葉に馴染めないのです。文字通りならば「永眠」は「永遠の眠り」ですよね。私は死というのは決して永久の眠りにつくことではないと思うのです。

 念仏者が往生するという極楽浄土だって眠っているわけではないでありましょう。私が考える死は人間(肉体)の世界から精神(霊魂)の世界に移動するということ。つまり、肉体修行の後も霊的魂的な修行が続くということ。眠ってはいられないというのが真実だと思うのです。私が「永眠」に馴染めないのはそこなのです。

 「永眠」は英語では「rest」と言い、これはdeathdie)の遠回しの表現とあります。この死の遠回しの別の言い方に「pass away」がありますが、これは「逝去」に近い言い方ではないかと思います。逝去の「逝」も「去」も共に「ゆく」であり、「pass away」も「away=あちら」)に「pass=ゆく」で移動することを意味しているのだと思うのです。

 もう一つ、この逝去に似た言葉に「遷化」があります。この言葉は今は「せんげ」と読んで「高僧の死」を言うことが一般的ですが、「せんか」と読めば「人の死」の意味になります。いずれにしても「遷」は「移る、よそに行く」という意味ですから「遷化」は「逝去」によく似た言い方と言えるでありましょう。

 皆さんは死という現象をどのようにお考えでしょうか。唯物論的に考えれば死は無に帰することであり残るもの継続するものは何もないということになるでしょうが、私は輪廻転生の立場から次の生があると思いますし、次の生までの間は精神の修行が続かざるを得ないと思っています。死は移行だと思っているのです。

  私たちの霊的・魂的存在は、
  最後の死から新しい誕生までの間は霊界にあり、
  そしてその霊界から降下してきたのです。 
          ~ルドルフ・シュタイナー~

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