観世音考 №467


観世音考
平成30年1月17日


      道玄玄寂寥     道奥深くひっそりと
      天朗々明澄     天はからりと澄み切って
      一切在天道     すべてのものがそこにある
      万物総同朋     みんな互いにつながって

 私たちが生きているこの地球は宇宙の星の一つです。果てしなく広大な宇宙の片隅にあるという銀河系の中の小さな星です。想像することさえ出来ない無限無窮の宇宙ですが、その天行は奥深く人智の及ばない秩序によっていると思います。そして、一切のものはその秩序の持つ大きなつながりによって存在しているに違いありません。

 私は観音さまもその大きなつながりの一つだと思います。「観世音」は「世音(衆生の苦しみ悲しみ)を観る」という意味。サンスクリット語のアバロキタ(観)とスバラ(音)の合成語です。もう一つ「観自在」という言い方もあって、この観自在は世音を「自在に観る」という意味。アバロキタ(観)とイーシュバラ(自在)との合成語です。

 しかし、観世音にしても観自在にしても「世音を(自在に)観る」ということであれば意味するところは同じでありましょう。では「観る」とは何かです。私はこの「観る」は直観だと思います。観音さまは衆生の様々な願い、あらゆる苦しみ悲しみを「直観」して下さる、それが「観る」ということだろうと思います。

 そして直観して下さった苦しみ悲しみに救いの手を差し伸べて下さること、それが観音さまの「慈悲」だと思います。「慈」は可愛がる、いつくしむ ということ、「悲」は悲しみ憐れむということ、その慈悲には思いやり寄り添うという心が前提になければなりません。困難な状況に同情する心こそが慈悲なのだと思います。
 
 前号でいま私たちに想像し推測する力が薄れているのではないかと申し上げましたが、これも上に述べた思いやり寄り添うことにつながると思います。私たちが観音さまに繋がるということは相手の状況を想像し推測して親身に考えること、そして自分が出来る援助をすることではないでしょうか。



       想像してごらん 何も所有しないって
       欲張ったり飢えることもない
       人はみんな兄弟なんだって
               ~ジョンレノン「イマジン」~


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