平成30年5月23日
私たち僧侶が供養でお経を読む時は必ず最後に回向文を読みます。回向文というのはお経が誰のために読まれたかを明らかにし、供養の対象になった方にお経そして法会の功徳を振り向ける(回向)という目的があります。こう申し上げると語弊がありますがお経は意味なくは読みません。誰かのため何かのためという理由があるのです。
これは皆さまも供養でご納得と思います。特に年回忌の供養は特定の故人のためになされますね。供養には年回忌のほかにお盆や春秋の彼岸供養などがあって、こちらはどちらかというと先祖代々供養が先になるように思います。しかし、特定の人であってもなくても供養は普通には自分とつながりのある縁者(有縁)を対象にすることが多いでありましょう。
何でまたこんな話かと申しますと、実はこの観音寺の法要の折にしている塔婆供養に必ず「無縁の精霊」の供養をして下さる方がおいでなのです。有縁無縁という言葉は一つには仏の教えに縁があるかないかということですが、供養で言う有縁無縁は供養する人とつながりがあるかないかということになりますね。
とすると、無縁の精霊に供養をして下さる方は自分に縁のない方の供養をして下さることになります。確かにお寺の「檀越先亡累代諷経」の回向には「有縁無縁三界万霊法界の含識等に回向す」という言葉があり、その時はその通り「有縁無縁すべてのみ霊と全世界の衆生に回向」するのですが、それを個人でして下さることに敬意なのです。
いつも申し上げていることですが、供養というのは生者が死者に祈りの力を送るということです。死者は生者の祈りの力を自らの力にするのです。とすると、供養してくれる縁者がいない死者こそ供養して貰うことを切望していると言えるのではないでしょうか。無縁精霊の供養をして下さる方の有難さはそこにあります。
死者の供養は決して死者のためばかりではありません。この人間世界は生者だけの力で成り立っているのではなく私たち生者は死者からの力をも頂いているのです。であればあるほど無縁精霊の供養がどんなに大きな意味を持っているか図り知れません。どうぞ皆さまも時に無縁精霊に思いを致して下さい。
無償の愛、これを「無縁の慈悲」という
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