平成31年2月25日
のっけから私事で恐縮ですが、何と先々週12日から20日まで肺炎で入院という羽目になりました。いやその二、三日ほど前から風邪のだるさは感じていたのですが、それは風邪の症状ではなかったのでしょう。12日午後、皆さんに医院まで連れて行って貰いましたら肺炎即入院となりそのまま救急車で運ばれたのです。
私、救急車には何回か乗ったことがありますが、患者として乗せて貰うのは初めてでした。その救急車に揺られながらふと頭をよぎったのが表題の「必死に死ぬ」という言葉でした。むろんその時私自身、死ぬということを思っていた訳ではありません。意識的には平常そのものでしたがその言葉が思い浮かんだのです。
この言葉言い直せば「必死に生きて死ぬ」ですね。人死ぬ前は生きています。その死ぬ前を「必死に生きる」ことこそが「必死に死ぬ」ということだろうと思います。「生きざまが死にざま」という言葉通り「どのように生きるか」イコール「どのように死ぬか」ということでありましょう。その思いが「必死に死ぬ」になったのだと思います。
では特に私の場合、「必死に生きる」生き方はどのような生き方でしょうか。一つの参考となる話が「正法眼蔵随聞記」(巻6―16)にあります。その話とは、ある時、大恵禅師がお尻に悪性の腫瘍を患った時「死ぬかもしれないなら益々坐禅しよう」と言って猛烈に坐禅したら、その腫物はうみつぶれて何事もなく済んでしまったというのです。
常識(世法)で考えるならば、致命的な腫瘍は治療に専念するのが当然でありましょう。しかし、大恵禅師はそれならと治療ではなく修行としての坐禅に専念し、結果として腫瘍を直してしまったというのです。これは大恵禅師がその自らの生き方として世法ではなく仏法を選んだということでありましょう。
このたよりでも時々世法と仏法について申し上げておりますが、私たち修行者としての僧侶は世法か仏法かという状況になった時は仏法を取らなければならないと思います。必死に生きる。その中身は一人ひとり違いますね。皆さまにとってそれは何か。時にそのことをお考え下さればと思います。
その時、自分ならば どうする
相田みつを
0 件のコメント:
コメントを投稿