人生の勝ち負け №541

人生の勝ち負け
令和元年6月20日

 1974(昭和49)年のことですからもう45年も前のことになりますが、さくらと一郎が歌った「昭和枯れすすき」を覚えていらっしゃいますか。あの時代、どうしてこの歌が作られたのか分かりませんが「貧しさに負けた いえ世間に負けた・・・」と物悲しく歌い出すメロディーをほろ苦く思い出される方もお出ででありましょう。

 いえのっけからどうしてこんな話かですが、皆さんは人生に勝ち負けはあると思いますか。上の歌の人生のように貧しさや世間に負けて終わるという人生があると思いますか。むろん一般的にはそれもありますよね。悪戦苦闘、奮闘努力してなお報われることなく終われば負けの人生ということになるのかも知れません。

 と考えると、人生には勝ち負けがあることになります。そうしたら先日の朝日新聞(6/1)、「折々のことば」に筑紫哲也さんの「ああおもしろかった、と臨終の際にどこまで言えるかが、限りある生の勝ち負けを決めるものさしだと私自身は思っている」という言葉が紹介されていました。筑紫さんは「敢えて勝ち負けを言うなら」と但し書きをつけてそう言われたそうです。

 恐らく筑紫さんも人生に勝ち負けがあるのかについては疑問だったのだろうと思います。だからこその但し書きだったのでしょう。でも仏さまの側から申し上げれば人生に勝ち負けはありません。世間的な勝ち負けは全く関係ありません。思い通りにいかず悩み苦しむのもその人の人生。仏さまから見ればそこに世間的な勝ち負けや優劣はありません。

 でも我々凡人、やはり人生に悩み苦しみは少ない方が有難いですし、嬉しいこと楽しいこと沢山を望むのが人情。その上で死ぬ間際、筑紫さん言われるように「ああおもしろかった」と言えたら嬉しいですよね。終わり良ければすべて良し、にする秘訣は何でしょうか。どうすれば「ああおもしろかった」と言えるでしょうか。

 人はみな中途半端に今生を終わります。たとえ人類に貢献をする偉業を成し遂げた人でさえ完全な人生完璧な生涯はないと思います。とすると、「ああおもしろかった」と思うにはその中途半端に終わる人生を一生懸命に過ごすしかありません。ただ誠実に明るく過ごすことが「おもしろかった」になるのでありましょう。
 
 力の限り生きたから 未練などないわ
花さえ咲かぬ 二人は枯れすすき
        <昭和枯れすすき>
 

 
 

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