“19紅葉幻想 №565

19紅葉幻想
令和元年12月2日

今年も長門市俵山の西念寺さんの紅葉を見に行きました。西念寺さんの紅葉を見に行くようになってもう何年になるでしょうか。しかし、行く日が大寧寺さんの法要の日、1123日と決まっていますので必ずしも丁度見頃という時にはいきません。大半が散ってしまったという年もあったと思います。

しかし、今年は有難いことに丁度よい時でした。これはお天気の影響があったようです。近年は地球温暖化の影響で紅葉の時期が遅くなっているそうですね。紅葉と言えば1011月というイメージだったと思いますが暖地では近年12月が紅葉の時期になりつつあると言います。のっけから余談になりました。今年の拙詠をご覧頂きたく存じす。

    やわらかく静かな午後の陽を浴びて降る雨のごともみじ散りゆく

    降る雨の如く舞い散るもみじ葉の落ちて地をゆく音のかそけき

 吹く風に誘われて紅葉がまるで雨のように舞い散ることがあります。その中にいると得も言われぬ不思議な幻想に捉われます。まるで異界に迷い込んだような気になるのです。以前、私たちがホタルや花火に魅かれるのは霊界の記憶に重なるからではないかと申し上げたことがありましたが散る紅葉にも同じようなものがあると思えてなりません。

    午後の陽を浴びていよいよ透き通る色とりどりのもみじ美し

    満開とたとえたくなるもみじなりいま一瞬の秋の色どり

 紅葉には午後の陽が似合うという気がします。やや西寄りになった日差しの中で見上げる赤く黄色く透き通る紅葉は息を呑む美しさです。それはまさに一瞬の時だからこそ一層美しいのでありましょう。滅びを前にして輝く一瞬の美、と思います。

    さくさくと枯葉踏む音耳にしてあとは止まりし時とこの間と

    山門を絵の額にして迷いなくもみじ謳歌の絵定まりぬ

 紅葉を見ながら歩みを進めると落ち葉を踏みしめる音だけが聞こえます。その中に佇むと時空が止まったような感覚を覚えます。それは山門の向こうに見える黄葉が山門を額にした絵のように見えた時もそうでした。これも幻想?
 
 
 
   谷に射す午後の日差しを背にすれば
    地面に(しる)き我の人影
 
 
 
 
 

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