傾聴ということ №574


傾聴ということ
令和二年2月4日

 先日の初観音には湘江庵の石井龍祐師にご法話を頂きました。石井師は毎年正月に檀信徒の皆さまにその年の抱負をお話されているのだそうです。敢えて公言することによってその抱負を実行せざるを得ない状況に追い込むというのです。で、師の今年の目標は傾聴。傾聴とは人の話に耳を傾けること。ただひたすら話を聞くことですね。
 
 師の話の中に東日本大震災で我が子を失ったお母さんの話を聴かれた方のことがありました。抱いていたわが子を津波にさらわれ自責の念に駆られて苦しむお母さんの話にただ耳を傾けて聴く。その傾聴者は「我が子は今どこにいるか」と尋ねられても敢えて答えず、互いに長い沈黙の時を持ったというのです

 その時、話を聞いている人が何か答えたらどうでしょうか。ひょっとしてそれが苦しんでいるいる人を救うかも知れません。でも反対に却ってその人の苦しみを増すことになるかも知れません。言いたい言葉を思いついても敢えてそれを言わずただ相手が言うことに耳を傾ける。傾聴とはそのことだというのです。

 人の悩み苦しみは基本的にはその人自身が乗り越えなくてはなりません。むろん助言してくれる人の言葉がヒントになることもありましょう。でも最終的には苦しみを越えるのはその人自身です。それはその人自身が悩み苦しんで見つけるもの。到達する心境でありましょう。傾聴とはその人の悩み苦しみに寄り添うことではないでしょうか。

 寄り添うとはその人の悩み苦しみに同化すること。その人の悩み苦しみと一体化するということです。傾聴とはまさにその同化・一体化のための作業に他なりません。悩み苦しむ人はその人の苦しみに一体化してくれる人から無言の力を得ることができるのです。そしてそれによってこそ苦しみ悲しみから脱却できるのです。

 そう言って思い出しました。いつだったかそよ風ヨーグルトのキャンペーンソング「いっしょに笑えば」という歌を紹介しましたね。あの歌の中に「誰かが泣いている時にはどうすればいいの。いっしょに泣いてあげたらいいの」という歌詞がありました。まさにそれこそ悲しみとの一体化ではありませんか。




    君の涙と僕の涙と いっしょに流せば 
        なんだか嬉しい 響き合う
              「いっしょに笑えば」

0 件のコメント:

コメントを投稿