「生死」考 №575

 「生死」考 
令和2年2月17日

 日頃、読むことが多い「修証義」の第一章「総序」は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て生死として厭うべきもなく涅槃として(ねが)うべきもなし…」という言葉で始まっています。この生死というのは何を指しているのでしょうか。

 文字通りならば生死は「生と死」ということになりますが、私はこの場合の生死は「生老病死」だと思います。生老病死は四苦。人生における四つの苦悩ですね。生とは人間に生まれて生きること、老とは老いること。人は誕生の瞬間から老いが始まります。若い時には成長という時期がありますが、その成長も老化の一過程に過ぎません。

 病は病気になること。そして死は死ぬこと。考えれば生老病死は人生そのもの。生老病死こそ人生だと思います。生老病死のない人生なんてあり得ません。私たちは生老病死という人生を生きるのです。生老病死が人生なのですから私たちはこの生老病死から逃れることはできません。生死とは生老病死。生死とは人生なのです。

 この生老病死に象徴される人生を苦と捉えるか楽と捉えるかは人それぞれでありましょう。道元禅師が「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と言われたのは、私たちがどのような生き方をしようともそもそも人生とは何か、その人生をどのように生きるかしっかり考えなさいということでありましょう。

 人生は一回限りと思う時、それならどんな勝手な生き方をしてもよいと思う人がいるかも知れません。また反対に一回限りの人生ならば精一杯努力する人生を送ろうと思う人もいるでありましょう。人それぞれです。道元禅師はその人それぞれの人生を「一人ひとりが真剣に考えなさい。それが仏教を学ぶものの努めです」と言われるのです。


 では「生死の中に仏あれば生死なし」とはどういう意味でしょうか。私はここで言う仏とは宇宙を司っている真実だと思います。私たち一人ひとりの人生もまた宇宙の真実そのものだと捉えることができれば生死の苦悩から離れることができるということではないでしょうか。宇宙の法則には苦しみも悲しみもないのです。
 

この生死はすなはち仏の御いのちなり
      正法眼蔵「生死」
 


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