令和2年 4月 17日
先月3月21日、宮城まり子さんが亡くなりました。93歳。謹んで哀悼の意を表します。毎日新聞に評伝を寄せられた藤原章生さんによれば「一瞬にして人を引きつける優しさがあふれる 人」であり「晩年になっても子供のように喜怒哀楽をはっきり表現する無邪気さ」を持っていた方だったと言います。まさにその通りの方だったのでありましょう。
また多才にして交友の広かった方でもありました。歌手、ミュージカル女優、映画俳優並びに監督、ねむの木学園創設者としてどの方面でも縦横の活躍をされましたし、交友では上皇ご夫妻と40年以上の親交をされました。作家吉行淳之介さんとは吉行さんが70歳で亡くなるまでパートナー関係を続けられました。
振り返って人それぞれの人生で誰に逢うか何に遇うかがその人の人生を決めることがあると思いますが、宮城まり子さんはまさに歌と人の出会いによって人生を歩んでこられたのでありましょう。中でも私はその出会いの一番が「ガード下の靴みがき」の歌であったと思います。この歌に出会うことがなければ「宮城まり子」はなかったに違いありません。
作詞宮川哲夫・作曲利根一郎の「ガード下の靴みがき」は1955年に宮城まり子さんが歌って大ヒットしましたが、後年、宮城さんは「この歌でいろんな子どもたちがいることを知りました。この歌は生き方を変えてくれた思い出の歌です」と言い、ねむの木学園の構想につながったことを述懐されていると言います。その通りだったのでありましょう。
私はこの「ガード下の靴みがき」は曲もさることながら歌詞に大きな意味があると思います。まだ戦後10年。人々は貧しさの中にありました。貧しい子どもが巷に溢れていました。この時代、そして宮川哲夫さんだったからこそ夕方になっても帰れない靴みがきの少年、寒さとひもじさに耐える少年たちを詞にし得たのだと思います。。
宮城まり子さんはこの「ガード下の靴みがき」の歌の心と飢えと寒さに震える少年たちを自分の心身にすることができました。それが後年、夢のない子に夢を与える「ねむの木学園」の創設になりました。私は改めて思います。私たちはそして日本はいま子どもたちに夢を与えられているだろうかと。瞑目合掌。
風の寒さや ひもじさにゃ
慣れているから 泣かないが
ああ夢のない身が つらいのさ
「ガード下の靴みがき」2番抄
0 件のコメント:
コメントを投稿