たとえ明日、世界が滅びようとも… №590

たとえ明日、世界が滅びようとも…

令和2年6月11日 

 「たとえ明日、世界が滅びようとも私は今日リンゴの木を植える」。皆さんもこの言葉をお聞きになったことがあると思います。この言葉は一般的には「たとえどんな状況になっても希望を失わずなすべきことをする」と解釈されていると思います。世界の滅亡を知りながら今日もリンゴの木を植え続けるというのは崇高な行為に違いありません。

 この言葉、16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターの言葉だそうです。それさえ知らずに私はこの言葉を上のように思っていました。その解釈は間違いとは言えません。いやむしろ「私は今日リンゴの木を植える」という言葉を、希望を失わない行為と取る方が心に響くものがあると言えないでしょうか。

 しかし、この「今日」という言葉は翻訳者が付け加えたもので英語の原文にはないのだそうです。英語原文「Even if I knew that tomorrow the world go to pieces I  would still plant my apple tree」 を忠実に訳せば「たとえ世界が明日滅びると知っても私はリンゴの木を植え続ける」となります。どうもこれがルターの本心らしいのです。 

 この言葉がルターの言葉であることを教えて下さった川崎・桜本教会の牧師、鈴木文治さんは「ルターにとって生きること、そして死ぬことは神の前で生きること、そして死ぬことであった。名言は神の救いを受け入れた者の信仰の露呈である。神と向き合っての言葉であることを忘れてはならない」と言われます。

 表題の言葉を鈴木牧師おっしゃるように捉え直すと一般的な解釈とはかなり違ってくるように思われます。「リンゴの木を植え続ける」の「続ける」(still)という言葉が意味するのは今日とか明日とかいうことではなく過去から未来に向かって続けられる行為になります、神に向き合って続けられる行為。それは信仰に基づく祈りということでしょうか。

 私はルターという人を全く知りません。しかし、表題の言葉を上のように理解することによってその人となりを知る思いがします。私たち仏教徒にとっても続けなくてはならないのは日々の祈りです。私にとっては坐禅も祈り、毎日のお勤めも祈りです。坦々と祈りの日を過ごすこと。それがリンゴの木を植え続けることなのでしょう。


でもなぜ「リンゴの木」なのですか。

どなたか教えて下さい。

 

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