お遍路で考えたこと① 遍路は祈り №607

 お遍路で考えたこと① 遍路は祈り

令和2年10月23日

 先達て79日高知県のお遍路に行ってきました。今回のお遍路、実は3月に予定されていたのですがコロナのために行けなかったのです。今回はガイドさんつきのバス遍路でしたから歩き遍路をしてきた身には些か気が引ける思いもありましたがその半面、筋肉痛の自分にとってはバスだから参加できたという面もありました。という訳で、今回は長い道を歩きながら考えるということはありませんでしたがお詣りの寺々で思うことはありました。今日はそのうちの一つ、三日目の朝お詣りした33番雪蹊寺で思ったことをお聞きください。 

 前に申し上げたことがあったと思います。雪蹊寺の門前には山頭火の「人生即遍路」という言葉が碑になっています。私はこの碑を見る度に山頭火の心を思います。人生即遍路と言ったその時の山頭火にとって「遍路は祈り」であったに違いないと思うのです。漂泊同然の生活をしていた山頭火の胸に去来していたのは「人生は祈り」ではなかったかと思うのです。

 山頭火の生涯は平坦ではありませんでした。平凡な喜びや楽しみからはかけ離れていたと言ってもいいかも知れません。時には悲しみに打ちひしがれ時には後悔にさいなまれたに違いありません。だからこそ山頭火は我が身が生きてあることの不思議を思い、その不思議に感謝したに違いありません。それこそ祈りであったと思うのです。

 真の祈りは願いではありません。若い頃神秘学の先生が「祈りとはお日さまに朝東から登って下さいということ、川さん海に向かって流れて下さいということですよ」と言われるのを聴いてびっくりした記憶がありますが真の祈りは自分の願いではありません。願わなくても叶えられることを祈りとするのが祈りなのです。

 願わなくても叶えられることを祈るということは何でしょうか。それは自然の摂理と一体化することに違いありません。朝になれば日は東に登ります。川は言われなくとも海に向かって流れていきます。それが自然の摂理だからです。どうぞ皆さん、皆さんも自然の摂理に一体化する祈りをなさってください。

おんあろきゃそわか、なむあみだぶつ。

これらご真言も仏さまと一体化するための祈り言です。

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