「共存」平和考 №625

 「共存」平和考

令和3年4月5日

  今年、新年早々のこのたより(№615)で「人類共存元年」ということを申し上げました。コロナは地球上の生物の共存ということを私たち人類に教えるために出現したのではないかという思いからでしたが、最近この「共存」という言葉を見たり聞いたりすることが多くなったように思いますので改めて共存と平和について考えたいと思います。

 「共存」に似た言葉に「共生」があります。「共生」というのは生物学的には「異なる種類の生物が生理的あるいは生殖的に緊密な結びつきを保ちながら一緒に生活している現象」を言います。共生には共生者の一方だけが利益を得てもう一方は利益も不利益も受けない「片利共生」というのがありますが多くは双方が利益を得るのが共生でありましょう。

 人間とコロナの関係はむろん共生ではありません。コロナウイルスが人間に感染するということはコロナウイルスにとっては増殖の宿主という利益がありますが人間にとっては不利益しかありませんから「寄生」でしかありません。インフルエンザウイルスも同じですが人間にとっては共生どころか有害な存在もあるのです。

 しかし、人間もウイルスもこの地球上に存在している限りはともに生存していかなければなりません。その時どうするか。それが私の言う「共存」です。コロナで言えば野生の宿主であるコウモリに留まって人間に感染しないこと。人間にとって不都合な存在とは互いのエリアを守って生存することしかないように思うのです。

 私はこの「共存」ということを思う時いつも人類の平和を思い浮かべます。世界はまだ平和ではありません。世界の国々と世界人類が平和に暮らすためには「共存」が第一ではないかと思えてならないのです。「共助」ができればよいのでしょうが、それ以前に「共存」することが必要ではないかと思うのです。

 「共存」は思っただけではできません。共存のルールがあります。まずは互いの違いを知ること。その違いを互いに尊重し容認すること。この違いは民族宗教文化だけでなく生活習慣食習慣などにも及びます。その違いを互いに認め合うことができれば争いはなくなるに違いありません。それが「共存」だと思うのです。


 鈴と、小鳥と、それから私、

   みんなちがって、みんないい。

          <金子みすゞ>

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