「出生前診断」是非考 №635

 「出生前診断」是非考

 令和3年6月10日

  先達てのこのたより(№628)に申し上げた新型出生前診断に関連して茨城県のOさんが身近な体験を手紙に下さいました。そこに書かれていたことは私自身思い当たることでもありこれからを考える上で大切と思われましたので皆さんにご紹介方々出生前診断はどうあるべきかについて考えたいと思います。

 Oさんの身近な体験とは従兄のお嫁さんが女児を出産された時の話です。そのお嫁さんは出産から1週間たって別の病院に連れていかれ、そこで医師から子どもが重い知的障害を負っていることを告げられたのだそうです。その時そのお嫁さんがまず思ったことは「“こんな子”を生んでしまった私は親戚中から責められるだろう」ということだったそうです。

 そのお嫁さんが出産したのは50年前だそうですが、私は自分が養護学校に勤務していた時に上のことと全く同じことを生徒のお母さんに聞きました。周囲が言う「こんな子」とは不具廃疾の役立たずということでしょう。そこには人権のひとかけらもありません。誕生を祝福されることのない出生なのです。

 しかし次の瞬間、そのお嫁さんが思ったことは「この子の味方は母親である自分しかいない。この子と生きていこう」という決心だったそうです。私は障害者が障害者として生まれる第一義は本人の修行にあると思いますが、もう一つは障害者の周囲の人、両親や家族の人たちにとっても同じように修行の意味があると思っています。決心に拍手、敬意です。

 後年、Oさんがそのお母さんにもしその時出生前診断があって(陽性と)知っても産んだかと訊ねた時、その方は即座に「自信がない」と言われたそうです。Oさんはその返事に彼女の苦悩を改めて思い知ったと言いますが、誰であれ、検査で陽性と知った時に産むか産まないかは苦渋の決断でありましょう。

 率直のところ、私は出生前診断に強い疑問を覚えています。検査があれば当然それを受ける人がいます。そこには障害児であったら産みたくないという思いがあることは否めません。陽性者の9割が中絶という事実がそれを表しています。結局、出生前診断は「命の選別検査」と言えないでしょうか。


神の領域は神に委ねよ!

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