「六曜」考 №639

 「六曜」考

 令和3年7月7日

 先達てとある相談を受けました。「お友だちとお悔やみに伺うことにしたのだけど暦を見たらその日は大安と分かってどうしたものか」と。大安と言うと一般的に万事よしの目出度い日と思っている人が多いと思いますからその目出度い日にお悔やみに伺うのはどんなものかと迷うのも当然かも知れません。

 皆さんはこの大安とか仏滅とかの六曜についてはどうお思いでしょうか。実は曹洞宗では六曜は何の根拠もないものとして皆さんがこれに捉われないよう申し上げていることもあって私自身はほとんど気にしていません。しかし、ほとんどのカレンダーには六曜が記されていますから日取りの参考にしている方が多いのでありましょう。

 それを思うと六曜を信じている人を頭から否定することはできません。ですから、上の相談の方にも「六曜に言う吉凶は根拠のないものですからあまり気にしないで頂きたいのですがもしご一緒の方や先方さんが気にする方であったら別な日にして下さい」と申し上げるに留めました。その後どうされたかは聞いていません。

 六曜は中国から伝わり紆余曲折を経て今の形になったのは天保年間と言います。本来は時刻の吉凶占いで、一日を午前昼午後の三つに分けてその時間を吉凶に分けたのです。先勝は午前よし、友引(共引)は昼悪し、先負は午後よし、大安は一日よし、仏滅は一日悪し,赤口(しゃっく)は昼だけよし、というだけのことなのです。

 六曜では旧暦11日は先勝、同じく21日は友引、31日は先負と順送りに割り当てているだけですからそこに吉凶の根拠はありません。おまけに友引は元は共引き(引き分け)で友とは関係なく、仏滅も元は物滅となっていて仏とは何の関係もないとのこと。これらを見ても六曜は遊びに過ぎないということがお分かりと思います。

 とは言え人が何かしようとする時、分けて新しいことを始めようとする時には「いい日旅立ち」にしたいと思うのは人情でありましょう。大切なことは六曜の真実をわきまえて自らの意志でその日を選ぶという心構えではないでしょうか。その心構えこそがその日をよい日にする最高のカギと思われてなりません。

 

      思い立ったが吉日


 

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