黄葉幻想 №659

 黄葉幻想

令和3年12月11日

   一陣の 風のまにまに 散るいてふ ゆめかうつつか まごうばかりに

 上の一首は先達てイチョウ黄葉が風に誘われて散るさまを見ていて詠みました。まさに風に誘われるがごとくに黄葉が散りしきるさまを見ていて夢かうつつかという気がしたのです。いえ夢かうつつかというよりは夢でもなくうつつでもないという一瞬でした。

 私がその時そこに見たものは異界であったに違いありません。異次元、異空間であったに違いありません。広辞苑には異界の説明として「日常とは異なる世界。物の怪や霊のすむ領域」とあります。また異次元の説明として「日常的な空間と異なる世界」とあります。それによれば広辞苑では異界と異次元はほとんど同じということになります。

 しかしながら広辞苑では「日常とは異なる世界」が現実に存在するかどうかについては言及していません。「物の怪や霊のすむ領域」という説明だけ聞くと、異界は想像の空間であり現実には存在しない世界であるようにも思えます。とすると、私が夢かうつつかと思ったのは単なる錯覚であったということになります。

 しかし私は異界は現実に存在すると思っています。いつでしたか、「相対論では過去と未来以外に、光の世界線を境にした非因果的領域という部分が現れてくる」(橋元淳一郎著「時間はどこで生まれるのか」)ということを紹介したことがありましたね。橋元さんはその非因果的領域について「比喩的に言えば“あの世”である」と言われるのです。

 橋元さんは非因果的領域について次のようも言われます。「われわれはそのような奇妙な領域が存在することを長い間知らないで来た。しかし、時間の本質を考えようという時に、過去でも未来でも現在でもない領域がすることを、われわれの日常感覚で捉えられないからといって無視するわけにはいかない」と。


 私は上の文章を読んだ時「あの世」を理解し得たように思いました。私たちは日常生活において非因果的領域に気づくことはありませんし、そのことによって困ることはありませんが非因果的領域は存在するのです。私が夢かうつつかと思ったのはあの世、異界に通じるタイムトンネルであったに違いありません。


  秋山の 黄葉(もみぢ)を茂み (まと)ひぬる 

  (いも)を求めむ 山道(やまぢ)知らずも

          柿本人麻呂

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