其(そ)れ恕(じょ)か №660

 じょ

令和3年12月17日

 先達て葬儀会館を通して葬儀を頼まれました。観音寺は檀家さんを持ちませんので寺が葬儀をすることは滅多にありません。しかし時に信者さんの中に観音寺の葬儀を望んで下さる方がお出でですので3年に一遍くらいは私もしているでしょうか。という訳で信者さん以外に葬儀を依頼されるというのは殆どないのです。

 余計な前置きを申し上げましたが、曹洞宗の葬儀は受戒(仏門に入るものが戒律を受けること)であり、その時に受ける名前が戒名ということになります。ですからその戒名を考えるに当っては故人がどんな仕事に携わってきたか趣味信条は何であったかどんな性格であったかなどを教えて貰わなければなりません。

 そうしたらその奥様が亡くなったご主人の性格について「優しい人で怒るということがなかった」と言われたのです。その奥様の話を聴いていて私は即座に思い出すことがありました。それが表題の「其れ恕か」という言葉です。この言葉は論語の中でも有名な言葉、巻八「衛霊公第十五」に出てくる言葉です。

 論語には次のように記されています。「子貢問うて曰わく、一言にして終身これを行うべき者ありや。子の(のたまわ)く、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」と。子貢さんは孔子様のお弟子です。その子貢さんが一言だけで一生行っていけるということがありましょうかとお尋ねすると孔子様は「それは恕だね」と言われたというのです。

 恕というのは思いやりです。孔子様は私たちが終生意識していくべきことは人に対する思いやりであり、その思いやりこそが人との関係を滑らかにしていくと思っていたに違いありません。その思いやりの根本にあるのが、自分が望まないことは人にしむけないということだったのだと思います。奥様のご主人はその思いやりのお方だったのでしょう。

 私はそのご主人の戒名を迷わず「寛恕」としました。その方の戒名に「恕」の字をつけることが最もふさわしいと思ったのです。振り返って自分はどうか。思えば私には懴悔しかありません。思いやりに欠けた自分がこれまでどんなに沢山の人を傷つけてきたことかと思うとその至らなさ申し訳なさに絶叫するばかりです。


よそから来た子は よそ言葉、

どんな言葉で はなそかな

      金子みすゞ「転校生」

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