共助ということ №663

 共助ということ

令和4年1月8日

 昨年8月、タリバンがアフガニスタンを支配して4ヵ月が経ちました。すべてを「イスラム法の枠内」とする中でアフガニスタンは民主主義国家ではなくなりました。世界の民主主義国家からは国として認められず経済はもとより外交の面でも一国家にはなり得ていません。女性の人権を認めない恐怖政治にあると言ってよいでありましょう。

 その状況で一番被害を被るのは女性と子どもです。とりわけ小さな子どもたちが餓死していると言います。人道支援さえままならぬ状態ではこれから子どもばかりか多くの人が飢え死にしてしまうのではないでしょうか。あまりにも悲しいです。救いの手が差し伸べられないまま無辜の人々が飢え死にするなんて許されることではありません。

 当観音寺では昨年暮れからアフガニスタンの子どもを救う一助にと募金活動を始めましたがつい先日、その募金で感激のことがありました。2年ぶりにこの観音寺に来た小1の孫娘が募金の話を聴くや「私も募金する。忘れないうちにする」と言って500円玉を入れてくれたのです。感激でした。感激しかありませんでした。

 募金に応じて下さる方の中にはむろん千円札を下さる方もあります。ですが孫娘の一か月のお小遣いは200円だそうですから入れてくれた500円が孫娘にとってどんな額であるかは分かっているはずです。孫娘にとっては大金のはずですが、その大金を募金にしてくれたことに私が教えられることがありました。

 実を言えば人間はコロナと「共存」するしかないということを私に教えてくれたのもこの孫娘ですが、今回の募金のことで私は「共助」ということを改めて考えさせられました。共助の根底にあるのは孟子の言う「惻隠(そくいん)の情」です。苦難にある人をいたわしく思う心です。そこに損得はありません。あるのは助けてあげたいという心だけです。


 これまでコロナに関して何回も申し上げてきた「共存」は互いに関りを持たなくとも成り立ちます。人間とコロナの共存はそれです。しかし共助には心があります。私たちはいま改めてこの共助を意識すべきではないでしょうか。これからの人間社会は共助を第一にすべきではないでしょうか。私はそのことを孫娘に教えられました。


惻隠の心無きは人に非ざるなり

      孟子(公孫丑上)


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