照顧脚下 №662

 照顧脚下

令和4年1月1日

 私の養護学校勤務時代の友人にUさんがいます。何時でしたか申し上げたことのある私を師匠と呼んでくれる貴重なお方です。Uさんは教員はすぐ辞めて特異な絵の才能を活かした仕事をしておられましたが、今はその仕事からも離れて悠々、この10年余りはこれも特異な視点による写真を撮り続けていて月に一度はその写真を私にも送ってくれるのです。

 実は先月の写真が砂浜に脱ぎ置かれたサーファー達のビーチサンダルでした。イメージして下さい。幾つものビーチサンダル。あるものはきちんと揃えられていますし、あるものは乱雑に脱ぎ捨てられています。その様は何かをイメージさせるに十分。Uさんはそれを見ながら「照顧脚下」という言葉を思ったのだそうです。

 Uさんはその照顧脚下という言葉を私から聴いたと言ってくれましたが、この言葉が表面的に意味するのは脱いだ履物を揃えるということです。しかし、この言葉の本来の意味は「おのれを振り返る」ということです。脚下とは自分自身、自分の足下であり、照顧とは省察し反省することです。自身を知るということに他なりません。

 ところへ、やはり私の教員時代のもう一人の友人Tさん、奇しくもこの方も美術教員で今は陶芸作家である方が手紙を下さいました。その手紙の中に「ゴーギャンが遺作に、われわれはどこからきたのかわれわれはなにものかわれわれはどこへいくのか、との問いを込めたのは1898年。この問いの120年後の答えの中に我々は生きています」とありました。

 思いました。UさんTさんの手紙にあった「照顧脚下」という言葉、ゴーギャンの遺作につけられた「われわれは…」という言葉。この二つの言葉こそ令和4年の年頭に際して私たちが意識すべき言葉ではないかと。自分自身そして人間という存在を省察するためにこの二つの言葉を考え直すべきではないかと。


 いま世界は目まぐるしく動いています。温暖化に伴う気象異変は人類はむろん地球上の生物が生存の危機に瀕しています。平和そして貧困も世界の緊急の問題です。今私たちの行動が求められている時、私たちは私たち自身そして人間という存在について深く考察し反省しなければなりません。


サーファーたちは波のりしながら

   照顧脚下しているだろうか。

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