〃22紅葉幻想 №707

 22紅葉幻想

令和4年12月4日

 紅葉観賞を俗に「紅葉狩り」と言いますね。狩りと言っても紅葉の枝を折り取ることではありませんが、つい先日京都・建仁寺の境内の紅葉の枝を折り取って警察沙汰になった“事件”がありました。近くの有名な日本料理店の従業員が料理の飾りにするためだったようですが何ともはやでした。

続いて余談になってしまいますが、紅葉狩りという言葉は桜狩り(桜を観賞しながらの鷹狩り)に因んで言われるようになったのだそうです。鷹狩りというのは主に冬の行事だったそうですから桜を観ながらの狩りは野遊び、花鳥風月であったのでしょう。

 閑話休題。今年も長門俵山の西念寺さんの紅葉を観ることができました。

屏風絵を広げた如く目の前にひろがる紅葉綾錦なり

     しぐれ降るなかに佇む紅葉には紅あり黄ありまた緑あり

 上り坂の途中から目の高さに見る紅葉はそれこそ一幅の屏風絵ようで美しいとしか言いようがありませんでした。一刻の自然の芸術でありましょう。

     降るしぐれいよよ静かなもみじ谷音なすものは何一つなし

     この谷の静けさ何とたとうべき紅葉ひっそり揺れもせずして

 時雨の中のもみじ谷は静寂そのものでした。動くものも音なすものもない静けさがあたりを覆っていました。と、その時微かな風が紅葉を散らしたのです。

     はらはらと舞い散るもみじに垣間見る異界霊界黄泉路の世界

 私はその時異次元を思いました。紅葉はその散り際に私たちに異次元・異界を見せているのではないでしょうか。この世とあの世は遠く離れているのではなく隣り合わせに、いやむしろこの世とあの世は混在しているのではないでしょうか。

 紅葉に幻想を覚える時、私は決まったように柿本人麻呂が亡くなった妻を求めて山を訪ねた歌を思い出します。いつだったかご紹介したその歌。

     秋山の黄葉をしげみ(まど)ひぬる(いも)を求めむ山道(やまぢ)知らずも

 人麻呂は行く手をさえぎるほどに散りしきる黄葉にこの世ならぬ世界を見たのだろうと思えてなりません。


私と「現在」を共有するのは、

「あの世」(非因果的領域)である。

橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」



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