植物の察知力
令和5年5月6日
いま庭のあちこちにタツナミソウが咲いています。一昨年、このタツナミソウを一輪挿しにして楽しんだ後、何の気なしに植木鉢に差して置いたらそれが根付いて驚いた話を申し上げましたね。昨年はそのタツナミソウが4本に増えて花を開いたということを申し上げました。タツナミソウの生きる力に驚嘆でした。
植木鉢はタツナミソウにとってむしろよい場所であったのかも知れません。渡辺和子さんが言われた「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を文字通りタツナミソウに当てはめた時、植木鉢はタツナミソウにとって環境的に露地よりよかったのかも知れません。今年は10本にもなって花を咲かせています。
上のタツナミソウで私は改めて植物の生きる力生きようとする力に驚かされましたが、植物は自分ではその場所を選ぶことができないだけに生き延びるために私たちが知らない能力を持っているのかも知れません。実は先達て「ん、どうして?」と思うようなことがあったのです。植物は察知力を持っているのかも知れないのです。
シャガが咲いた4月のことです。例によってこのシャガを一輪挿ししてしばらくそれを楽しんだ後、もう終わりかなと思ってアヤメに替えることにしたのです。その時はまだシャガが1,2輪残っていましたのでアヤメは別の花瓶に挿して並べて置きました。そうしたら何と言うことでしょう。終わりと思ったシャガがまた咲き出したではありませんか。
もう終わりと思ったシャガが再び花を咲かせる。それはむろんツボミが残っていたからでしょうが、見た目にお終いと思われたシャガがそれまでに益して花を咲かせたことには驚きしかありませんでした。ひょっとしてシャガは私が心に思ったことを察知して次々に残りのツボミを開かせたのではないかと思えたのです。
そして4,5日、何とアヤメが先に終わりました。思いました。植物は人間が思っていることを察知する力を持っているに違いないと。そうでなければ今回のようなことは起きないのではないかと。植物の察知能力、「植物学の父」と言われる牧野富太郎さんはどう思っておられたでしょうか。
「私は草木に愛を持つことによって、
人間愛を養うことができる、
と確信して疑わぬのである」
牧野富太郎
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