人生未完成遍路 №738

 人生未完成遍路

令和5年7月17日

 かねがね私は「人生は中途で終わる」と申し上げてきました。中途で、という言い方は聞こえがあまりよくないので最近は「未完成で終わる」と言い方にしましたが、いずれにしても同じです。私たちの人生はゴールに達することもなければ完了することもありません。中途、未完成なのです。

 私は人は輪廻転生するという考えを信じていますが、なぜ輪廻転生するかと言えば私たちの人生が未完成に終るからからです。人は誰しも人生を未完成のまま終わらざるを得ません。となると、その未完成の人生には反省や総括が伴ないます。その反省・総括こそが次の生まれ変わりを生じさせるに違いないと思うのです。

 人が輪廻する存在であるという考えはインドにはお釈迦さま以前からあったと言われていますが、その考えがいま私が申し上げたように人生未完成に基づいているのかどうかは知りません。ただその根底には人は肉体存在であると同時に魂を持った霊的存在だという考えがあるに違いありません。

 話は飛びますが、いま私は井筒俊彦さんが書かれた「意識の形而上学‐大乗起信論の哲学」という本を読んでいます。この本は私にとって超難解で9割方理解できていないと思いますが、中に一か所、輪廻転生について「おっ、これだ!」と思わせられるところがありました。それをご紹介したいと思います。

 「起信論の語る究竟覚(くきょうかく)の意味での悟りを達成するためには、人は己自身の一生だけでなく、それに先行する数百年はおろか、数千年に亙って重層的に積み重ねられてきた無量無数の意味文節のカルマを払い捨てなければならず、(中略)不覚と覚との不断の交替が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく」


 井筒さんは上のように述べた後、「この実存的円環行程こそいわゆる輪廻転生ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか」と言われます。私は「これだ!」と思いました。人間は悟りに到るために何百年何千年となく生死を繰り返す。永遠遍路。それが輪廻転生でありましょう。


人は生ある限り繰り返し繰り返し

「不覚」から「覚」に戻っていかなくてはならない」

           井筒俊彦「意識の形而上学」


0 件のコメント:

コメントを投稿