政治・メディアの責任 №750

 政治・メディアの責任

令和5年10月17日

たより前々号で最近痛切に思っていることとして「核のごみ」のことを書きましたが、その後改めて二つのことについて思うことがありました。一つは沖縄の普天間飛行場の辺野古への移設計画のこと、そしてもう一つはジャニー喜多川の性加害のことです。この二つのことで政治とメディアの責任を強く思ったのです。

 まず辺野古への移設のこと。9月に最高裁で沖縄県敗訴が確定するや国交相は4日までに埋め立て予定地の軟弱地盤の設計変更を承認するよう県に指示しました。しかし、玉城デニー知事は「期限までに承認することは不可能」と回答しました。これに対して国交相は翌5日、代執行に向けて福岡高裁那覇支部に提訴したのです。

 私はこれに強い怒りを感じてなりません。沖縄県知事の回答は解決を弄んでのことではありません。法を理解してなお法通りにはできない苦しみの結果なのです。その苦しみは玉城デニー知事一人ではありません。沖縄県民の苦しみなのです。その苦しみを一顧だにせず代執行提訴をする政府に怒りしかありません。

 もう一つのことはジャニー喜多川の性加害です。その性加害は何と40年以上、被害者は500人以上になると聞いてそのすさまじさおぞましさに身の毛がよだつが思いがしますが、ではどうしてそんなことが許されたのか、ではないでしょうか。なぜ長い年月多くの人への性加害がまかり通ったのか、ではないでしょうか。

 被害者救済委員会などの調査で明らかになってきたのは、性加害の事実を多くの人そしてNHK始め民放各局、新聞社などが知っていたという事実です。程度の差こそあれジャニー喜多川の性加害を周囲はむろんメディアも知っていながら見て見ぬふりをし続けてきたのです。犯罪を越える癒着があったとしか言いようがありません。


 沖縄のこと、そしてジャニー喜多川のこと、この二つに共通して言えることは当事者の悩み苦しみを無視しているということです。政府もメディアも当事者の悩み苦しみを全く思っていません。それで政治と言えるでしょうか。正しいメディアと言えるでしょうか。堕落ここに極まるという思いがしてなりません。


「公共放送が信じられなくなったら

 我々は何を信じたらよいのか分からなくなります」 

                <友人T君の嘆き>


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