生老病死を考える №751

 生老病死を考える

令和5年10月18日

生老病死(しょうろうびょうし)を四苦と言いますね。仏教では人が生まれて生きること、老いること、病むことそして死ぬことの四つを苦しみと捉えました。ま、生きることには喜びも楽しみもありますからすべてが苦とは言えませんが、生きることと捉えればやはり苦と言えるのかも知れません。

 先日、この生老病死を思っていて歌とも言えぬ言葉を思いつきました。「人はみな生まれて老いて病んで死ぬ諸行は無常命永遠」という言葉です。人はみな生まれた時から老いが始まります。その途中には病がつきものです。病気にならずに済む人はありません。そして最後はその病によって死んでいきます。

 上のことに当てはまらない人はいません。生物の宿命と言うべきでしょう。程度の差こそあっても人はみんな老いて病んで死んでいくのです。でもその私たちは無常の存在であることを考え合わせると、生老病死は1回ではなくなります。無常というのは変化し続けるということですから死の後も変化し続けることになります。

 その意味で思ったことが「命永遠」ということです。私たちは今生での肉体の命が終わってもなお変化し続けてまたいつの日か生まれ変わって人間として生きるに違いありません。無常とはそれを言うのだと思います。私たちの命は永遠の変化をしていく。変化せざるを得ない。それが無常なんだと思うのです。

 ご存知「修証義」の第1章総序は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」という言葉で始まりますね。そして「生死の中に仏あれば生死なし」と続きます。私はここに言う「仏」は無常と同意語だと思います。無常こそ真実。仏というのは無常そのものを言っているのだと思うのです。


 無常は瞬瞬刻々です。その無常の中には生も死もありません。生は生、死は死。ただ真実真理が存在するだけです。人間から見れば一瞬一瞬の変化に喜怒哀楽を思いますが、無常の仏から見れば変化の過程にしか過ぎません。「但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく涅槃として欣うべきもなし」なのです。


「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」

       正法眼蔵「生死」


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